実は子が摘むだろう

 雨が降りしきる中でも港の人口は減ってはいないようだった。
 昨日見かけたように多くの人々が船に乗ろうと集まってきている。
 アースは車を港近くの店舗裏に止めた(その店の主人と知り合いらしい)。車から降り、荷物を持ってファルシオンたちは船着場まで歩いて行く。
 出航までは時間がある。船に通じる桟橋もまだ封鎖されていた。
「こんな日に出発とは運が悪かったなぁ」
 待合室の中でコーヒーを飲みながらアースが苦笑した。
「今日も波が高くなるってよ。まぁ大丈夫だとは思うが……沈没しない事を祈ってる」
「船酔いが心配だけど」
 ファルシオンはため息をついた。彼以外誰も船に乗った事がないのでどうなるのかはわからない。
 アリアとルージュはガラス越しから港に停泊している船を見て回っていた。恋路は横でソファーに腰掛けて眠っている。
「なぁファルシオン君。あれは何を売っているんだ?」
 あたりを歩き回っていたパンプルムーゼが売店を指差して尋ねてきた。彼女は先ほどから興味津々な様子であちこちを見回していた。
 目立つ風貌の為に好奇の目を彼女に向ける者もいたが、同じく目立つ風貌のファルシオンも傍にいる事でそれほど稀有な存在に見られなかった。何かの仮装と思われているのかもしれない。
 アリア、ルージュに続いてすっかり彼女の質問にも答える係になってしまったファルシオンは、ソファーに腰掛けたまま背伸びをして応える。
「あれは土産物を売ってるんだよ。お菓子じゃないかな」
「菓子?あんなに色々な種類があるのか。こちら側には食料が多大にあるな」
「買ってあげようか」
 ファルシオンは彼女を連れて売店に向かった。そして彼女が一番興味を示した、クリームの詰まった焼き菓子を購入した。
「美味しい。美味しいな、これは」
 パンプルムーゼが目を輝かせて言う。あまりの喜びようにファルシオンは思わず笑ってしまった。アリアたちにも、と思って買っておいた残りの菓子もパンプルムーゼに渡す。
「あんたたちが住んでいるところは、お菓子とかあんまりないの?」
「菓子どころか食料自体が不足しているよ」
 カシスジャムの入ったパイをかじりながらパンプルムーゼが言った。
「私は都市部に住んでいるし、ケルヌンノスのような政府組織に勤めているからましだがな……郊外に住んでいる下層部の人々には食料の配給が行き渡っていないらしい。大気や土壌が汚染されて作物がうまく育たないんだ」
「そうなのか……。むこう側はそんなに荒れているのか?」
 パンプルムーゼはちらりとアースたちのいる場所を見た。彼らの興味が他のものに向けられている事を確認してから、少し表情を曇らせる。
「世界崩壊の日からなんとか復興を遂げてはいるが……今ではゆっくりと衰退している。このままでは確実に世界は滅びるよ。こちら側を残して」
 パンプルムーゼは人々が行きかう港を見つめた。憧れと憤りが混じりあった眼差しを向けている。
「……何故彼らは人間種族だけを受け入れ、楽園を創ったのだろう。何故我々は楽園から追放された?昨晩彼に問いただしてみたのだが……何も答えなかった」
 そして菓子を食べ終え、残った包み紙を丁寧に折りたたみながら彼女は口元を皮肉めいたものへと吊り上げる。
「政府や組織がこちら側の存在を隠していた意味がわかったよ……これを知ればむこう側はこちら側へと侵攻するだろうからな。いや、実際噂を信じて数年前から侵略計画を立てている者たちもいる。ただ結界があるからこちらに自由に行き来する事が出来ない……その為に結界を支配している魔術士を皆捜している。ケルヌンノスも、反政府組織も、原初の野獣たちも」
「……あんたもこちら側の存在を知って、奪いたいと思った?」
 ファルシオンの言葉にパンプルムーゼは苦笑して肩をすくめた。
「まさか。誰かの居場所を奪って手に入れたところで、今度はそこを奪われまいと気を殺がれながら生きていくのは性に合わない。ならば狭い場所ながらも寄り添って生きてくよ」
「……自分の子供たちが飢えで泣いているとしても?」
「君はずいぶんと意地の悪い質問をするな」
 彼女の答えは簡単だった。
「奪い合って世界は崩壊した。だから今度は分け合う。私はそう決めたんだよ、崩壊の日を目にした時に」
 それに、と笑いながら言う。
「知っているか?私たち森人は生涯を終えればその体から樹が生える……子供たちは私の樹に成る実を食べて生きてくれれば、それでいい。あの子達はわかってくれるさ」



 出航の時間が近くなったところで港内には武装した警備員がいつからか集まり出していた。
 彼らの緊張した雰囲気を見てアリアとルージュが戻ってくる。
「みんなぶきもってた。けんか?けんか?」
「様子がおかしいわ。何かあったのかしら」
「……密航者でもいたのかな」
 応えながらファルシオンは立ち上がり港の方を見た。
 大きな船が何艘も停泊している中、港の警備員たちは波止場に並び慌しく武装準備をしていた。
 旗を持った旗手が海に向かって大きく信号を送っている――何に向けて送っているのかはここからでは見えない。だが波止場に運び出された銃器を見て思わず声を上げた。
「……おいおい、機関砲まで持ち出してる。こりゃあ何かあったな」
 待合室の中にいた人々も異常に気づき、皆怪訝な表情で港を見つめていた。
 ファルシオンは階段からガラス張りの展望台に駆け上がると、港の向こう――海へと視線を向ける。
 ここに来るまでに見かけた、あの黒い船が港へと向かってきていた。緩慢としかし真っ直ぐにこちらへと船は向かって来ている。
 波止場に設置されている大砲や銃器の類はその船へと向けられているようだ――後をついてきていたアースが黒い箱舟を見て驚きの声を上げた。
「あの船は──!」
 波止場に立っていた警備員──主任だろうか、中年の男が部下たちに警告を発していた。黒船に向けて機関砲を向ける。その瞬間だった。
 黒い船の前方に突如として巨大な紋章のようなものが浮かび上がった。その紋章が一体何なのか、考えている暇もなく紋章から光が溢れた。
 視界を包む光にファルシオンは咄嗟に気づく。これは──魔術!
 無意識のうちに前方へと腕を突き出し宙に文字を描いた。光――よく見れば光を放ちながら渦巻く光熱波だった――がこちらへと届く前に文字は一気に広がり展望台を包む。
 ファルシオンは光に目を細めながら自分の術を呪った。この建物全体を防ぐまでの術を展開するには時間が足りなかった。下の階にいる人々が──!
 と、背後にいたはずのアースが前に進み出たのが見えた。 彼は何かを溜めるように身を屈め、大きく口を開いた。異常に鋭い牙がそのあごに生え並んでいる。
 彼は一言、吠えた。獅子とも狼とも言える獣のような声で。
 そして光の奔流が彼らを包んだ。
 足元が崩れるかと思うほどの衝撃にファルシオンは膝をつく。自身が作り出した障壁に阻まれ光熱波は左右に別れて建物を抉っていく。
 光と熱が収まってからファルシオンは術を解いた。そしてガラス窓が砕けて吹きさらしになった壁に向かって駆け出す。
「アリアたちが!」
「大丈夫だ」
 冷静な声が背中に掛けられる。振り返るとアースがゆっくりと身を起こしていた。
「波止場にいた奴らも無事だよ」
「……!?でも、あの術をまともに――」
 言いながら港の方へと視線を向け、ファルシオンは絶句した。
 大きくせり上がった土壁が港全体を包んでいた。
 波止場にいた警備員たちが突如として目の前に現れた土の壁を見て騒いでいるのが見える。窓から身を乗り出して建物の一階部分も確認するが、やはり強固な土壁がその周りを覆っていた。
「ファルシオン!」
 階段からアリアたちが駆け上がってきた。彼女たちに声をかける。
「皆、無事か?」
「へいき。光にびっくりしたけど土のかべがずわーって出てきてアリアたちまもってくれた」
「何があったの?」
 と、遅れて恋路とパンプルムーゼが階段を上がってきた。恋路はアースを見て言う。
「ベヘモ──じゃねぇ、えーと、アース!あの船はむこう側の!」
「あれは私が追っていた武装集団の船だ。奴らもこちらに来ていたのだな」
 ファルシオンたちの横を駆け抜け窓から船を確認してパンプルムーゼが舌打ちした。
「いきなり攻撃を仕掛けるとは……!あの集団のリーダーは過激派で有名なんだ。指名手配されている」
 彼女の言葉にアースは問い尋ねた。
「あの船の連中はこの街を侵略しに来たってのか?」
「かもしれません。元々各地で略奪行為を働いていた連中で、楽園の噂が広まってからは結界近くにアジトを構えていたという話は聞いていました。ならず者の獣人が集まった気の荒い連中ですよ」
 それを聞きアースは口元を吊り上げた。
「この街の連中も気が荒い。早く止めないと戦争になる」
「止めるって……どうやって?」
「とりあえずは……警告でもしとくか」
 ファルシオンの問いにアースは首を鳴らしながら窓へと歩いて行った。そして窓を飛び越えて、そのまま落ちる。突然の彼の行動にファルシオンは窓から下を見下ろした。ここは三階、しかもかなりの高さがある。
 だがアースは落ちながら建物の壁を蹴り、身軽な様子で地に降り立った。そして港へと駆け出す。
 その様子に唖然としながらもファルシオンは振り返って仲間たちに声をかけた。
「俺も行ってくる。恋路、頼んだぞ!」
「私も行く」
 パンプルムーゼが進み出た。頷きながらファルシオンは指で文字を描き、パンプルムーゼの手を掴んで窓から飛び降りる。重力中和の術で落ちる速度をコントロールしながら二人は地面に着地した。そして先に行ってしまったアースの後を追う。
「予告も無しの先制攻撃か……むこうの連中はそんなに気性が荒いわけ?」
「ああいうものは集団になればどこにでもいるさ……まぁ確かに、肉食系獣人は基本的に気性が荒い。荒いというか非常に好戦的だ。本能だろう。獣人の相棒にそれを言ったら偏見だと怒られたが」
 ファルシオンの言葉に苦笑しながら彼女は応えた。
「だが私も未知の文明の場所に対して、ここまで唐突に攻撃を仕掛けるとは思っていなかった……奴らの船は嵐で沈んだかむこう側に戻っていたかと思っていたからな」
 倉庫を抜けた所でアースの姿が見えた。彼は沿岸の岩場に立ってまっすぐ黒船を見つめていた。雨は今だ降りやまず、海から押し寄せる大きな黒い波はとめどなく岩場に打ち付けられている。
 息を弾ませながら彼の後ろで立ち止まる。ちらりとこちらを見てアースは苦笑いを浮かべる。
「ついてきたのかよ……あんま見られたくねぇんだけどな」
 彼はそう呟きながらいつも被っているニットの帽子を取った。彼の頭を見てファルシオンは目を丸くする。そして思わず脳裏に浮かんだ言葉をそのまま口にした。
「獣耳萌え?」
「あー、言うと思ってた」
 若干恥ずかしそうにアースは半眼で呻く。彼の耳はふさふさとした毛の生えた、獣の耳の形をしていた。
「彼は獣人だ。気づいていなかったのか?」
 パンプルムーゼは特に驚いた様子もなく腕を組んでいた。ファルシオンは曖昧に頷く。
「いや……なんか尻尾のようなものも見えてたけど……ああ、そういう趣味の人かなーって思って。ほら、たまにいるだろそういうのが好きで自分もなろうとしちゃってる人」
「俺は変態か?」
「なんだその趣向は。聞いたことがないぞ、どういうものなんだ?」
 興味深々に長い耳を跳ね上げてパンプルムーゼが聞き返す。彼女に獣耳萌えの詳しい説明をしようとしたところでアースに止められた。彼は嘆息して再び前を向く。
「ちょっと下がってろ」
 深呼吸をして彼は唸り声を上げた。身を屈め、手を地面につけて大きくあごを開く。
 言われたとおりに後退し、一体彼は何をするのかと注目していたが、目の前で起きた彼の変化にファルシオンは絶句した。
 四つん這い状態で唸り声を上げていたアースの体が突然巨大化していったのだ――同時に硬い毛が全身に生えだし、爪は鋭く伸びて土を抉っていく。その様子は昔映画で見た狼男が月を見て変身するかの如くだったが、実際目の前で見るとその迫力は段違いだった。いつの間にか彼の大きさは見上げるほどになっている。
 変身が終わり、アース――頭部に二本の大きな角の生えた、獅子とでも言うべきか――が首をもたげて黒い船を見据えた。そして船に向かって威嚇するように吠えた。大気が震えるほどのあまりの音量にファルシオンは耳を押さえる。
「痛っ――!!」
《引け、我が眷属よ!》
 アースの声がこだまする。だがそれは肉声ではなく念話だった。脳に直接届く声。
《これ以上の理不尽な攻撃を仕掛けるのならば、我自らお前たちの身を引き裂き海の藻屑となすぞ!》 
 黒い船の動きが止まったように見えた。
 アースは微動だにせずじっと緑色に輝くその双眸を黒い船に向けている。彼は獣の姿のまま、器用ににやっと笑って見せた。獣が笑うのをファルシオンは初めて見た。
《さぁ……どう出る?》


* * * *


 ファルシオンたちが行ってしまった後、ノチェロは自分の部屋に戻ってぼんやりと窓から海を見ていた。彼の部屋からは港が見える。ちょうど机に座った向きで見えるので、よく何もする気が起きない時などに眺めるのが癖になっていた。
 荒れ模様の港には何隻かの船が泊まっている。あのうちのどれかに乗って、ファルシオンたちは移民の国へ行くのだろう。
(旅か……いいなぁ)
 この街から出た事もない。ただ、もう少し大きくなって学校も卒業したらこの家を出ようと思っていた。移民の国へ行って料理の勉強をしたい。それを母に言うと母は少し寂しそうな顔をした。だが父──父親代わりのあの人──は、まずはこの店の味を全部覚えてから行けと笑いながら言った。この店に伝わる料理のレシピは彼の本当の父親が残した物だ。
 父と母は戦災孤児だった。
 両親が子供の頃はこの街は独立戦争真っ只中で、街には支配国からの軍隊が押し寄せ多くの被害が出ていた。
 同い歳で互いに料理人の親を持っていた両親は施設を出てから結婚した。まだ十代だったという。そして二人の夢だった、この街で店を構える事を叶える為に父は戦争に行った。戦争に行けば生活が保障された。給料が貰え、住む場所が与えられたからだ。戦時中はろくな仕事がなかったらしい。
 時折戦場から帰ってきては、少ない休暇を父は彼と遊んでくれた。釣りに行ったり船に乗ったりと普段会えない分を取り戻すかのように、よく遊んでくれた。そして戦場に戻ってしまった。
 彼が六歳になった時、父が死に、その次の日に戦争は終った。父はその戦争の最後の犠牲者だった。戦死通達は遅れていた。
 その時の事はよく覚えている──戦争が終わり、独立を勝ち取った街は賑やかなもので、港には多くの人だかりが出来ていた。皆戦場に行った男たちの帰りを待っていた。そして船が着いた。
 母は生まれたばかりの妹を抱え、彼の手を握りながら港で父が船から下りて来るのを待っていた。だがいつまで経っても父の姿は無かった。そのうち妹が泣き出して母は妹をあやしながら船から下りてくる人を見つめていた。
 船から下りる人が居なくなった所で、写真を片手に母に話しかけてきた男がいた。男は父の友人だと言った。戦争に傭兵として参戦していて、父のいた部隊にいたらしい。
 写真に映る母と彼の姿を確認して男は言った。「父が戦死した」と。それを聞いて母は卒倒した。彼は泣き出した。
 男は泣き出した彼と彼の妹を必死でなだめ、母を抱えて家まで送ってくれた。だが母はそれから一週間目を覚まさなかった。その間ずっと男は何故か彼らの面倒を見ていた。父が死に母が倒れて泣いてばかりの彼の為に不味い飯を作り、ぐすり出す妹に粉ミルク(分量が違ってて妹はそれをよく吐き出していた)を与えては男は彼らの傍から離れなかった。それが今の父だ。
(あの人もさ)
 部屋の外から妹のグレナデンの声が聞こえてきた。もう今年で五歳になる。
(なんであの時、僕らの面倒を見てくれたんだろう……友人って言ったって、そこまでする義理はないだろう?戦場で知り合っただけだろ?)
 母のシャルトリューズの怒る声が聞こえ、グレナデンが駄々をこねて泣き出した。いつもの喧騒にノチェロはため息をついて、机の上に置いてあった郷土料理の本を開いた。
 だが唐突に閃光のような眩い光が窓から飛び込んできてノチェロは顔を上げた。窓から外を見る──港が光に包まれていた。光は港に立つ海上交通局の建物に突き刺ささるように収束したが、突然せり上がった土が港を囲むようにして光から港を守った。ようやく遅れて轟音がノチェロの耳に届く。爆発音のような音だ。
「なんだ、あれ──!」
 港の向こう、海には一隻の見慣れない黒い船が浮かんでいた。その船から光が発せられたように見えた。
 ノチェロは部屋から飛び出した。廊下を駆け抜けて店の中で呆然としていた母に声をかける。
「母さん、港に変なのが!」
「そんな、アースたちが……」
 青ざめた表情でシャルトリューズが呟く。
「まさか、隣国がまた攻めてきたの?」
 戦争の記憶でも蘇ったのかシャルトリューズの体が震え出した。だがすぐに彼女は店の入り口へと駆け出す。
「母さん!」
「ノチェ、グリをお願い!」
「母さん待って!僕も行くよ!!」
 ついて行こうとするノチェロを置いてシャルトリューズは港に続く坂を駆けて行ってしまった。残されたノチェロは店の隅で指をくわえていたグレナデンの手を引き、店の扉を閉めてから母親の後を追う。しかしグレナデンがいる為に速く走り出す事ができずにすぐにシャルトリューズの姿は見えなくなった。
 手を引かれて精一杯走りながらグレナデンが尋ねてくる。
「おにーちゃん、ママどうしたの?」
「港が攻撃されたんだ。母さんは心配して見に行ったんだよ」
「みなとにはとーちゃがいる!アリアもみんないるよ!」
 走りながら港を見る。あの光の攻撃以降の攻撃はなく黒い船は港へと前進していた。港の警備隊は何をしているのだろう?いつも港で偉そうに仕切っている制服の男たちの事を思い起こしているうち、向かっている港の方向から獣のとてつもなく響く雄叫びが聞こえてきてノチェロは身を竦ませた。
「おー、かいじゅうの声が聞こえたー」
「そんな馬鹿な……」
 のん気に歓声を上げる妹とは裏腹にノチェロは怯えた。この辺りに猛獣のいる動物園なんてないし、このような声で鳴く獣も生息していない。港に何がいるというのか。
 獣の雄叫びの余韻が大気を震わせ終えたとき、彼は脳内に直接響いてくる声を聞いた。
《引け、我が眷属よ!》
(何で頭の中に声が──!?)
 ノチェロは混乱して耳を押さえた。だが声は耳を塞いでも頭の中で響き、その後も誰かに警告を発して唸り、そして沈黙する。
 意味もわからずぼーっとしていたグレナデンが謎の声が聞こえなくなったと同時にはしゃぎ出した。
「とーちゃの声だ。とーちゃが何か言ってるよ」
 妹を連れて港に辿り着いたときには、交通局の建物から多くの人々が逃げてきていた。彼らの間をぬって港を目指す。同時に母親の姿を捜したが見当たらなかった。
「──!? ノチェロ!」
 名を呼ぶ声がして振り返る。逃げる人々の間から一昨日喧嘩をした相手のジャンが立ち止まってこちらを見ていた。彼は近寄ってきて港を指差す。
「あっちはやばいぞ、逃げた方がいいって!」
「何があったの?」
 ジャンは焦りながら言った。
「父さんの船が戻ってくるから、俺、堤防で待ってたんだけどさ……」
 彼の父親は漁師だ。よく彼は父親の手伝いをしている。
「変な黒い船が港に近づいてきたかと思うと、船の前にいきなり変な、何ていうか……模様みたいなものが浮かんでさ、模様から光が出たんだ。光は海の水を蒸発させながらこっちに来たから、俺、死ぬと思って……そしたら急に地面がせり上がってきて光を防いだんだ。あれだよ、堤防みたいになってる」
 ジャンが言うとおり、コンクリートで舗装されている地面を突き破って土がせり上がっていた。その光景が海に面した場所で続いている。彼は興奮した様子で続けた。
「それで助かったと思ったら、今度は倉庫の方に急に見たこともないでっかい動物が現れたって……俺も逃げるときにちらっと見たけど、馬鹿でかいんだ。ゾウ並みの大きさだった。その動物と、変な格好をした人たちが立ってて……なんなんだ、あの人たち?」
「僕の母さんは見なかった?」
「見てない。お前も早く逃げた方がいいぜ、俺たちは砦跡に行く」
 ノチェロはグレナデンの手を握り直して海の方へと駆け出した。ジャンが背中に声を投げかけてくる。
「早くお前も来いよ!」
 次第に港で見かける人々の数が減っていった。皆避難したのだろう、交通局の建物内も無人になっていた。
「母さん!お母さん!!」
「ママー!」
 二人は母親を呼びながら建物の奥へと入っていった。取り立てて大きな被害はないものの、窓ガラスがほとんど割れていた。ガラスの破片が床に散乱している。
 建物内からはいつもは海を眺める事ができたが、今はどう発生したのか原因不明の土壁が視界を遮っていた。
 と、上から人の声が聞こえたような気がしてノチェロは見上げた。ロビーは吹き抜けになっているので、どこからか声が反響してくる。
「……母さん?」
 慎重にノチェロは呼んでみた。誰かが床を蹴る音がした。
 二階の手すりから顔を覗かせたのはシャルトリューズだった。
「ノチェ!グリもいるの?」
「母さん!こんなところで何してるんだよ、逃げなきゃ」
「ママー!」
 グレナデンは階段を上っていった。シャルトリューズも階段を駆け下り、娘を抱き止める。ノチェロも彼女に近寄った。
「何が起こったの?何か、港が攻撃されて、大きな動物も出たって……」
 シャルトリューズは首を横に振った。
「私もわからないの…でも上にアリアちゃんたちがいるわ。さっき、展望台に行ったら皆がいて……」
 三人で展望台に上る。
 ガラス張りの展望台もほとんどのガラスが割れて柱だけが残っている状態になっていた。その場所に、先ほどまで彼の家に滞在していた人々がいる。
 赤毛の女性がこちらに気づいた。確かルージュという名前だったと思う。
「まぁ。お母さんを追って来たのね」
「ごめんなさいね、待ってるように言ったのだけれど……」
 母親の言葉に、金髪の異国の服を来た少年がちらりとこちらを見た。彼とは喋った事がないので名前を覚えていなかった。
「……まぁ、案外身近にいた方があいつも安心なんじゃねーの」
「本当に……あれがアースなの?」
「あの姿をあんたたちは初めて見るのか?」
「あんなの、見た事なんて……確かに耳とか尻尾とか変わってるとは思ってたけど」
「そこ疑問に思うとこじゃねーか……?」
 ノチェロは少年と母親の会話を聞きながら、海へと視線を向けた。展望台の高さまでは土壁は届いていない。
 天候が悪く荒れている海にはあの黒い船が浮かんでいる。そしてその船に向かい立つように、海岸の岩場に大きな獣がいた。角の生えた獅子のようだったが、ジャンが言っていた通り見た事もない獣だった。
 その獣の後に二人の人物が立っている──黒いライダースーツを着た紫髪の男と、奇妙な黒い服を着た緑色の髪の女──ファルシオンと、昨晩海から助け出されたパンプルムーゼという女性だ。
「ファルシオンたちは何をしてるの?」
「黒い船に乗っている連中に警告しに言った。今は向こうの返答待ちだ」
 ノチェロの疑問にシャルトリューズは首を傾げていたが、それを見て金髪の少年が答える。
 と、それまで黙ってファルシオンたちを見つめていた白い服の少女、アリアが低い声で呟いた。
「もどってくる」
 見ると大きな獣にまたがって、二人がこちらに向かってきていた。獣は身軽に倉庫の間を駆け抜けあっという間に今ノチェロたちのいる建物の下まで辿り着いた。死角になり見えなくなったすぐ後に、展望台に大きな影が飛び込んで来てノチェロは思わず母親の腕を掴む。シャルトリューズ、ルージュも悲鳴を上げていた。
 飛び込んできたのは、あの獣だった。
「──動きは止まっているみたいだ」
 獣の背中からファルシオンが顔を出した。彼は獣の背中から飛び降りるとこちらに気づき苦笑を浮かべる。
「ノチェロ。来ちゃったのか」
「応答もない。攻撃の動作も見受けられないな……」
 そう言いながらパンプルムーゼも背中から飛び降りた。彼女はそのまま展望台内を歩き、壁があったギリギリのところで立ち止まる。
「恐らく本当に貴方なのかという事を審議していると私は思います」
《こんなところでのほほん暮らしてるわけないってか?まぁむこう側だと信じられないか……》
 獣が喋った事にノチェロは仰天した。母親も口に手を当て驚いている。だが聞こえてきたその声は間違いなく父のものだった。
 獣がこちらを見た。
「……あ……アース?」
 シャルトリューズが戸惑いながら獣に問いかける。獣は申し訳なさそうな表情を浮かべた。姿が変わっても緑色の瞳も眼差しも変わっていなかった。
《……わりぃ、黙ってたんだ。驚いただろ》
「……驚いた、というか……前から変わってるとは思っていたけどね」
 唖然としながらもシャルトリューズはそう呟き苦笑した。グレナデンが彼に駆け寄る。
「とーちゃ!おっきいワンワン?ライオン?」
 足元にしがみ付いたグレナデンの顔に獣は頬をすり寄せ、舌で舐める。彼女は悲鳴を上げたが嬉しそうだった。それを見て幾分かノチェロも平常を取り戻せる事ができた。母親も獣の体を撫でている。
 それを見て後ろではファルシオンとパンプルムーゼが何か言い合い、笑っていた。
 だがアリアの一声でその場は再び緊張した空気が張り詰めた。
「なにかくる。だれかここにくるよ」
 獣が顔を上げる。
 展望台の部屋内の中心に突如魔方陣のようなものが浮かび上がった。パンプルムーゼが声を上げる。
「これは──転移魔術!」
 魔方陣から、人が浮き出るようにして姿を現した。後ろにいたファルシオンが静かに前に進み出て、ノチェロたちを守るように腕を軽く伸ばす。
 現れたのは二人の男と一人の女だった。皆、父と同じように獣の耳を生やし、それぞれ特徴のある尻尾を持っている。
「──、──?」
 一番年上らしき虎の耳を持つ刺青の男が何か言ったが言語がわからない。パンプルムーゼを助けたときと同じ場面だ。
 だが獣はその言葉を理解していたようだった。いきなり聞いたこともない言葉を使い彼らに反応する。
 横に立っていた兎耳の女が何か彼に囁いた。虎耳の男は頷いて自身の腕に刻んだ刺青に手を添える。刺青の一部が輝きだす。
「──これがこちらの言葉か、我らが王よ」
 虎耳の男がそう呟いた。そしてうやうやしく膝を折り、獣にひざまずいた。残りの二人も同じく身を屈める。
「ご無礼をお許しください。ですが、我々は──止まる事はできません。この地を奪う為に危険をおかしてこちら側に来たのですから」