大総主のもの

黒い船が崩壊した港に到着した。甲板の上で手すりを背に座り込んでいたファルシオンはアースの手を借りて立ち上がる。横で手すりに腰掛けていた恋路も飛び降りて港を見下ろした。
 波止場に横付けすると、アースが港に溜まった土砂で階段を作りあげた。船を操縦していたティフィンも甲板に出てくる。
 船から降りて港に降り立つと倉庫街を抜けて軍用車が猛スピードで走ってきた。運転席には車を運転しているコアントロゥと、その隣に乗っているアリア、パンプルムーゼ、ノチェロ、グレナデンの姿(明らかに詰め過ぎだった)が見えた。彼女たちはドアを開け転げ落ちながら出てきた。後部席からはルージュとシャルトリューズが出てくる。
 それぞれの名前を呼びながら彼女たちが駆け寄ってくる。
「ファルシオン!またしらがになってる!」
 アリアがそう言いながら腹に抱きついた。その後ろでルージュが嬉しそうに笑っている。
「無事でよかった……」
 彼女たちに力なく笑いかけてふと横を見る。
 アースには彼の家族が抱きついていた。少し離れた場所にいたノチェロも名を呼ばれると、しまいには泣きながら父親の胸に飛び込んでいった。
 それを見てファルシオンは微笑んだ。彼が守り抜いた家族だ。
 と、不穏な気配を感じて反対側に視線を移す。ティフィンが両腕を広げて突っ立っているのが見えた。
 その彼の前で腕を組んでいるパンプルムーゼが冷たい声で尋ねる。
「……お前、何をしているんだ?」
「やだなぁムースったら照れちゃって〜。ここ、君が飛び込むスペースだよ……ああっ、ウニはやめて!いたいいたいっ!」
 手当たり次第に物を投げつけられティフィンが悲鳴を上げて逃げ惑う。
 まぁあれはいいや、とファルシオンは視線を戻した。恋路とまた口喧嘩を始めそうなアリアの頭を撫でながら街を見る。そして目を細めた。
「……だいぶ、景色が変わっちまったな……」
 美しかった港は見るも無残な状態だった。街も被害が少なかったとはいえ、多くの建物は傾き道路は木々の根で埋め尽くされている。
「……復興には時間がかかるだろうな」
「だが、誰も死んでいない。これは奇跡としかいいようがないな……君たちに礼を言うよ」
 振り向く。コアントロゥが腰に手を当て苦笑しながら立っていた。彼は地面に落ちていた小さな貝殻を拾い上げて言う。
「大丈夫さ……この街はまた甦る。何度でも復興する。前以上の美しい街にしてみせるさ、この街はそうやって発展していったのだから」
 彼が昔戦場から帰ってきた時もそういう顔をしていたのだろう。
 悲嘆とこれからへの期待、色々な感情が混ざった眼差しで街を見つめているコアントロゥを見てそんな事を思った。
 見ると砦跡から軍用車に乗って住人たちが戻り始めていた。徒歩で街へ降りて行く人々の姿も見える。それを見て思わず呟く。
「……逞しい人たちだな」
 コアントロゥはニッと笑って見せた。そして軽く手を上げ、後に続いて港に来た自警軍の元へ去っていった。
 背後に気配を感じて振り返る。左肩にグレナデンを乗せたアースが後ろから歩み寄っていた。彼は後ろからこちらの肩を軽く叩き、近寄ろうとするティフィンをけん制しているパンプルムーゼと、無下に扱われさめざめと泣いているティフィンにも視線を向ける。
「ありがとよ……おまえさんたちのおかげで最悪の事態は免れる事ができた。俺一人じゃあ出来なかった事だ」
「ありがとーぉ!」
 片手を元気よく上げて真似をするグレナデンに苦笑しながらファルシオンは言う。
「お礼を言われるほどの被害の少なさじゃあなかったけどね」
 アースは頭を振りながらそんなことねぇよ、と小さい声で呟いた。
 ファルシオンは急速に眠気に襲われてあくびをした。顔を両手でこすりながら顔に走った裂傷も思い出し呻く。
「……三日間は眠り続けられる自信があるな」
 と、腰に抱きついたままのアリアが急に腕に力を入れた。緊張したように体を強張らせているのがわかる。彼女は前方の一点を凝視している──
「どうしたんだ、アリア」
「ファルシオン」
 彼女は黒い船を指差した。
「けものがくるよ」
 その存在に気づいた自警軍の人々から悲鳴が上がった。
 慌しく武器を構え、その獣を包囲する。その見覚えのある姿にファルシオンは声を上げた。
「あいつ……!」
 黒い船の上にいたのは黒髪の獣人。狼の容貌を残した青年だった。
 彼は白み始める空と消えかかっている月を背にこちらを見下ろしている。その表情は逆光になって見えない。
「そういえば、姿がなかったね〜」
 のんきなティフィンの声が聞こえる。だが言葉とは裏腹に彼が残り僅かな魔力を使い、いつでも術が使えるように構えていた。
 青年が船から飛び降りる──が、落ちたと言った方が正しいような動きだった。海に落ち、土砂が溜まり浅瀬となった上を異様な動きで歩いてこちらに向かっている。
 アリアを下がらせてファルシオンは不審に思った。
(動きがおかしい……)
 アースに噛まれ重傷を負っていたはずだ。実際青年の動きは妙なものだった。大きく背骨が横にずれている──怪我が治りきっていない様子で、痛覚がまともであればそんな状態で動けないだろう。
 グレナデンを降ろし、前に進み出たアースが何かに気づいたかのように声を上げた。恋路もはっと顔を上げる。
「お前……」
 アースの目の前に立つ青年の表情は虚ろだった。目の焦点が合っていない。口を半開きにして、異様な響きの声を発する。前に聞いた青年の声音ではなかった。
《──それが……貴様の姿か……惨めなものだな》
 その声を聞き、パンプルムーゼが後退った。震える声で言う。ティフィンも顔色を変えていた。
「あ、あの声……大総主の声だ」
《ようやく……結界の中に入る事ができた……ここが……人間たちの楽園……》
 死者のような虚ろな目で周りを見渡し、青年が顔の向きをアースの真正面で止める。
《貴様らの……小さな儚い楽園か……》
「むこう側で好き勝手言ってくれてるようだな。その話を聞いたときゃ、怒りを通り越して呆れて笑っちまったぜ」
 亡霊のような声音を発する青年──パンプルムーゼの言葉では大総主の声か──とは打って変わって力強いアースの声が響く。
「他人の体を勝手に借りて、こちらに何しに来た……。俺を責めにでも来たか?」
《忌まわしいあの幻想人の……魔術士が…結界の制御……制限され……時間が無い……》
 アースの問いかけを無視して大総主は冷徹に言い続ける。
《貴様は何を……している……我らが使命……忘れたのか……》
「人の上で偉そうにふんぞり返ってろってのか?」
《それが世界に必要ならば……そうしよう……悪戯に支配など……してはいない》
「そうか?話を聞いている分には、どう解釈しても恐怖支配じゃあないのかお前のやり方は」
 微かに腕を引かれファルシオンは振り向いた。
 いつの間にか横に立っていたルージュが青い顔で腕に触れていた。顔を寄せ、囁くように彼女に問い尋ねる。
「……どうしたんだ?」
「ファルシオンくん、私……あの人の声……知ってるの……」
《ここで……貴様は何を……力を失くし……人になったつもりか……忘れるな……貴様は……野獣ベヘモト……大地の化身……!》
 大総主は虚ろな眼差しを、アースの足にしがみついている少女に向けた。グレナデンが怯えて更にアースの足にしがみつく。
《人の体を得て……人の真似事をして……人ごときに成り下がった貴様に何ができるというのだ……!そのような繋がりが何になる!早く力を取り戻せ……世界は未だ崩壊し続けている……!悪魔の毒は全てを蝕んでいる!》
「それで結界を外してどうする気だ。その連中のように攻め入ってくるのか。人間種族を再び追いやるのか」
《……人間種族……裁かれたのだ……滅びるのが定め……彼は裁定者だった……》
「どうしてお前は……!」
 そこで初めてアースが激昂した。声を荒らげて叫ぶ。
「そうまでして簡単に命を切り捨てる!俺たちは世界で生きる全ての生命の守護者──種族の境界など関係ない!」
《では貴様は……人間種族の為……全ての命が消えてもいいと……言うのか……!愚かな……何故わからない……!悪魔はいずれ復活する……奴の憎しみは封印すら解こうと……世界への憎しみへと変貌する前に……我らは結界を外す!なんとしてでもだ……!》
 アースが歯軋りをする音がこちらまで聞こえていた。彼は怒りでよほど感情が高ぶっているのか、牙が伸び髪を逆立てて獣のような形相になっていた。
 しかし、怯えていたグレナデンが彼の腕を引く。
「とーちゃん……」
 腕を引く娘を見たアースの表情が緩んでいった。
 彼は目を閉じ深く深呼吸をして、大総主へと視線を戻す。
「……お前も俺も、目的は一緒だ。けどな、フェンリス」
 娘の手を強く握って彼は言った。
「俺が本当に守りたいものは、お前が下らないと──取るに足らないと簡単に切り捨てたものの中にある!それだけは覚えておけ……!」
《…………。》
 指を突きつけられていた大総主は黙って彼を見つめていた。そしてしばらくして視線を移し、少し離れて静かに二人の攻防を見ていた恋路に目を留める。
《フェニックス……貴様も……ベヘモトと同じく我らと敵対するか……》
「……そいつの意見全てに賛成ってわけでもねぇ」
 話を振られ面倒そうに恋路はアース、大総主へと順に目を向けた。そしてはき捨てるように言う。
「だがお前のやり方は気にくわねぇ。そんだけだ」
《何故……理解……せぬ……思考すら……肉体的なものと……成り果てたか……》
「支配者気取りのお前の頭がいっちまってんじゃねーの。俺は俺のやりたいようにやる、ほっとけ」
 辛辣な言葉を大総主に投げかけて恋路は鼻を鳴らした。
 大総主の体──獣人の青年の体が大きく揺れる。
《愚かな……愚かな……》
 黒い髪が逆立ち始めた。青年の体が総毛だっていく。
《一度……その肉体から……解き放つ……必要……ここで……》
 青年が獣化し始めた。それを見て傍にいたティフィンが眉間にしわを寄せて呟く。
「まずいよ……あんな状態で獣化なんてしたら、あの人は死ぬ。ものすごく体力を使うんだ」
 実際青年は口から大量の血を吐き出していた。傷口が広がったのだろうか。折れ曲がった背骨を無理矢理曲げて地面に手をつき、鋭く伸び始めた牙を剥き出す──白目を向きその目からは苦痛の涙が出ていた。
 青年の口から微かな声が漏れた。本人の声で──言葉はわからなくとも何故か意味はわかった。助けてと言っている。
 思わず剣を抜き獣人に突きつける。彼を支配している大総主へと、だ。
「……おいっ!やめろ、そいつが死ぬぞ!」
 煩わしそうにこちらを見た大総主が声を上ずらせた。
《…………?その姿……貴様……!?》
 そして横にいるルージュの姿も見て驚いているようだった。ルージュが悲鳴を漏らして背後に隠れる。彼女を守るように腕を広げ、ファルシオンは大総主を睨む。
《その娘……何故こちら側に……!誰の仕業だ……ラグナロクは……封印……》
(ラグナロク……?)
 どこかで聞いた事のある単語が頭の中で引っかかる。魔力を奪おうと腕に巻きつき蠢く青薔薇を無視してファルシオンは思考を巡らせた。
 大総主は何故か標的をこちらへと移した。アースが叫ぶ。
「よせ、フェンリス!!そいつらは──」
《誰の策略か……アシャか!何をするつもりだ……貴様たちは!》
 半獣化した青年が駆け出した。恋路が動こうとするも、青年が目を向けた瞬間彼の体が弾かれる。同時にアースも大きく弾き飛ばされていた。魔術か何か他の力かはわからない。
 青年の体からは視覚できるほどの魔力が溢れていた。彼は他の人々には目もくれずファルシオンとルージュに襲い掛かる。ファルシオンは背後に向かって叫んだ。
「ルージュ、逃げろ!」
「だ、だめ……動けない……」
 苦しそうに胸を押さえながらルージュは座り込んでしまっていた。呼吸が激しく乱れている──先程から彼女の様子はおかしかった。彼女は大総主に恐怖していた。
 その場から逃げられない──ファルシオンは飛び掛ってきた青年めがけ剣を薙ぎ払った。しかし青年の視線がその剣を一瞥した瞬間、彼の体は地面に叩き伏せられる。何をされたのかまったくわからなかった。触れられてもいない。それでも止めをさされなかったのは幸運だった。
 青年は倒れたファルシオンの体を飛び越え、すぐ傍に座り込んでいたルージュの目の前で立ち止まった。ファルシオンは何とか顔を上げ、ルージュに手を伸ばそうとするも──体が動かない。
 離れた場所からアリアが叫んでいた。
「ルージュ!!」
《……その力……どうして解けたかはわからぬが……今ここで……我が手に……》
 ルージュは蒼白な顔で青年を見上げている。
 青年の体から溢れていた魔力の流れが収束していくのが見えた。それは人の形へと姿を保った。
 人の形をした何かは手を伸ばしルージュの胸元に指を置く。彼女の胸元から淡い光が放たれだした。彼女の鼓動に合わせるように光は揺らめいている。それを見ていたルージュ本人は絶句していた。
 何かの手は彼女の胸元の肉をすり抜けてその光を掴む。光をつかまれた瞬間ルージュが苦悶の表情を浮かべた。
「あっ!!」
《返して……もらう……》
 ルージュの怯えた眼差しがこちらに向けられた。彼女は名前を呟いていた──ファルシオンくん、と微かな声で言っていた。
 ファルシオンは全身の力を振り絞って上半身を起こし、剣を握った。
「──やめろ!!」
 掌の中の光が消えていく──ルージュの姿も光に呼応するかのように消滅していった。
「ルージュ!!」
 伸ばされた手は届かなかった。涙を溜めた彼女の目も消えていく──ルージュの姿が視界から消えた。
《何……?》
「だあっ!」
 大総主の声と同時に響いたのはティフィンの声だった。
 彼は大総主から離れた場所に突然転げまわった。その腕の中にはルージュがいる。
 ひっくりかえりながらも、向けられた主の視線を見て彼は震える声で笑った。
「はは……や、やっちゃった……」
 転移魔術か──理解するや否や、彼の念話が脳内に響き渡る。
《ファルシオンくん、あの獣人の頭の上を狙って!その剣で突き刺すんだ!》
 ファルシオンは腕に絡みついた茨をむしり取った。そして剣を、すぐ傍で立っている青年の頭上──人の形を成しているそれへと投げつけた。
 剣はそれに突き刺さり霧散させ地面へと落ちる。
《馬鹿な……魔剣……だ……》
 亡霊のような呟きだけを残して大総主が消滅した。支えを失くし青年の体が地面に崩れ落ちる。
 しばらく呆然としていたファルシオンはよろめきながらも立ち上がってティフィンの元に走り寄った。
「ルージュ!」
 身を屈めてティフィンの腕の中にもたれかかっているルージュをのぞき込む。彼女は目を閉じて動かなかった。ティフィンが穏やかな声で言う。
「……気を失っているだけだよ〜」
「……そうか……」
 安堵の息をついてファルシオンも座り込む。アリアとパンプルムーゼが駆け寄ってきた。
「よくやったティフィン。冷や汗をかいたぞ」
 パンプルムーゼが珍しく相棒を褒めていた。だがさすがに余裕がないのかティフィンは笑って頷くだけだった。
 彼女たちに尋ねる。
「何だったんだ……あの声は?」
「……大総主──政府の頂点に立つ人物の声だ。彼の本性は原初の野獣の一人、月夜の覇者フェンリス……」
 顔を上げてパンプルムーゼは空を見た。最早日の出の光に溶けて月は見えない。
 空を見上げていた彼女の顔に大きな影が差し込む。アースが歩み寄っていた。
「大丈夫だったか?」 
 ファルシオンは彼を見上げて口を開いた。
「アース、彼女は一体……いや……いい。今はいい」
 問いは不安にのまれてしぼんでいった。首を横に振る。気を失っている彼女の顔を見てファルシオンは少しだけ唇を噛んだ。 
 海の水平線から朝日が昇る。雨夜で大気が浄化されてその光は眩いばかりだった。パンプルムーゼたちがゆっくりと昇る太陽を見て感嘆の息を漏らしている。
「あれが……太陽……なんて明るいんだ」
「すばらしい景色だね〜……」
 街の住人たちも、その場にいる誰もが日の出を眺めていた。
 だがファルシオンは一人目を閉じた。朝日は今の彼の目には眩しすぎた。