「うるさい」
アリアは光の届かない場所で小さく蹲り呟き続けていた。
耳を塞ぎ、何も聞こえないように自分の声で外からの音が聞こえないように呟き続けている。こんなにも耳を塞いでいるというのにこの音はなんだ。頭が割れそうだ。
「うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい――」
肩に掛けられたジャンパ−に顔を埋め、唯一あの部屋から持ち出す事が出来た写真立てを胸に抱きしめアリアは呟き続けた。
もう彼女にはあの音しか聞く事は出来なくなっていた。



* * * * *



彼女の住んでいた廃アパートは炎上していて、黒い煙を轟々と巻き上げていた。
暴徒の中を掻い潜りようやく辿り着いたその場の光景を見てクロエは悲鳴を上げる。
「アリアが!!!」
ファルシオンは舌打ちをし、横に居た火炎瓶を投げようとしていた男から瓶を取り上げた。止めるんだ、と叫ぶが誰一人として彼の言葉に耳を貸そうとはしない。
「――ダメだ。集団催眠状態になっている。何を言っても――彼らには伝わらない」
アパートには人影は見えないが、彼女の部屋があった部分は完全に燃焼している。
クロエは頭を抱えて叫ぶ。
「ファルシオンさん、アリアが、アリアが――」
「落ち着いて。あの子は足が速い、きっと逃げ出してるよ」
根拠は無いが、そうでも言わないと発狂してしまいそうなほどクロエは混乱していた。
「どうしよう、私はどうしたらいいの、アリア・・・・・」
今にも気を失いそうなクロエを支えながらファルシオンはアリアの居た部屋を見つめる。
――人影は無い。それに、あの子は音に敏感だ。こんなにも大勢の人間が来る事に気づかないはずが無い・・・・・。
彼のその考えを肯定するかのようにそれは再び起きた。
騒然としていたその場から音が消えてゆく。耳が痛いほどの沈黙の世界がやって来た。
彼女の力だ。しかも今回は特に強力だった。
彼の力を持ってしても、以前のように呪文一つで彼女の力は打ち消す事は出来ない。完全な力の前では彼の術もそうそう効果が現れるものではない。
――やはりあの子は生きてる。
ファルシオンはそう確信すると、クロエを立たせ口を大きくはっきりと動かした。
僕が彼らを引きつける。君はあの子を探すんだ。
意味が通じたらしくクロエはその言葉に必死の形相で頷いた。
逃げ出した彼女が居そうな処は自分しか知らない。自分しかアリアを捜し出せない。
行くんだ。まだ間に合う、あの子はまだ完全に自分の世界を天使に捧げていない――
クロエは群衆をかき分けて走り出した。
彼女の姿が見えなくなるとファルシオンは意を決し、燃え上がるアパートに近づく。そして近くに落ちていた廃材の一本を手に取り地面に巨大な文字を描き出した。
騒然としていた群衆たちが何をするのかと一同に彼を見つめる。
注目されている事を確認しながら文字に手を乗せ、力を使う。覚えたばかりで実践で行うのは初めてだったが。
地面に描いた文字が輝きだす。
青い霧がアパートを包んだと思った瞬間、一瞬にして轟々と燃え上がっていた炎が消える。そして炎の代わりに現れたのは――
――こっちの方が、あの子の力よりもよっぽど悪魔のようだろう。
そう自らの影を見て笑う。黒い影。あの時見た天使の姿を模した姿。
黒い影に巻きつかれたファルシオンは群衆に一瞥くれると、炎の消えたアパートへと去った。
恐怖にとりつかれた群衆は正気などとうに失い悪魔のごとく現れたその男を追って猛牛のように走り出す。


廃墟のように静けさが漂う街の中を一人走り彼女を捜す。
街を覆うように現れた霧がクロエの視界を奪っているが、なんとか勘で走り回っている状態だった。
自分の家の前には居なかった。ついでに家の中も見てきたが、誰も居ない。
門まで出てきて焦りながら次に向かう場所を考える。
(あの子の居場所って――)
今までの彼女との思い出を総ざらいし、彼女が居た事のある場所を思い出す。
昔アリアが母親と共に住んでいたアパート。いや、あの場所は最早取り壊され更地状態だったはずだ。それに彼女はあの場所へは近づこうとはしていなかった節がある。
じゃあ、一体何処に――
また走り出そうと、地面を蹴り上げた、その瞬間。
クロエは地面に倒れこんだ。
自分でもなにが起こったのかわからず、地面に顔をつけたまま唖然とする。
苦しい。息が詰まる。
彼女の中に響く唯一のあの音が消えかかっていた事に気づく。
恐れていた事態がついに訪れた。いつか、音がなくなっていたこの世界でも唯一響いていたこの鼓動が消えてゆくのではないかという予感――
胸を押さえ、荒い息をしながら仰向けに転がってクロエは泣いた。
(アリア・・・・・これが、あんたの望む事だったのね)
彼女に怒りは湧いてこない。
ここまで彼女を追い詰めたのは誰だ。
独り苦しんでいる彼女を疎ましく思っていたのは誰だ。
世界を変えようと力を手に入れた彼女を敵と見なしたのは誰だ。
・・・・・全部、自分たちじゃあないか。
報い、そんなようにも思えた。彼女は悪くないと思ってもいた。
(でもアリア、わかってるの?)
見たことも無い不気味な色の空を見つめながら、彼女に届きますようにと願いながら思う。
あんたの世界・・・・・私たちの居るこの世界を壊したら、またあんたは独りになるんだよ。
あの人の話で聞いた港町の男の子みたいに世界を壊した後、自分も天使に連れて行かれるかもしれないんだよ。
あんたはそれを――わかってる?
私はね、アリア、あんたを独り残したくないんだよ?
音が段々と小さくなってゆく。うつろう視界、クロエは最期に叫んだ。
音が聞こえなくても構いやしない。これは私の叫び。魂の叫びだ。音なんていう枠を超えてあの子の魂に届いていればいい。









ごめんねアリア、ずっと一緒に居てあげられなくて










次々と目の前で街の住人たちが倒れていった。
殺気立っていたその場が唐突として静けさを伴って崩れていく。
皆苦しそうに胸を押さえて倒れていった。きっと、あの子の力が彼らに伝わったのだ。
あの子――アリアが与えられた力は、音を消すという力。
彼女は自分の耳に届く雑音を天使に捧げたと言っていた。それはつまり彼女を苛む事柄全てを指しているのだろう。彼女への非難の声も、侮辱も、それを口にする街の人々も、彼女を追い込む街の生活も、彼女の世界の全て、すべて。
そして彼女は人の鼓動にも敏感だった。普段なら気にする事も無い鼓動の音すら彼女は聞きわける事ができた。その理由はわからないが――鼓動も音として捉える事が出来た彼女はついにその与えられた力を完全に使ってしまった。
唯一この世界に残っていた音を消しにかかった。彼女が聞いていた鼓動を消してしまった。
これで、彼女は世界を壊してしまったのか。
やはり手遅れだったか。
誰も動かなくなった街の中を彷徨っていたファルシオンは、霧の中に潜む影を見つけ立ち止まった。
公園の遊具の上に浮かぶ影。
ゆっくりと近づく。
顔を上げたその影は無表情のまま呟いた。
・・・・・アリアはいっつも耳を塞いでいた。世界はこんなにも雑音で満ちていたから。
だから、いっつも耳を塞いでいたら――いつからかこの音がアリアの中に響くようになっていた。
どれだけ耳を塞いでも、天使がくれた力を使ってもこの音だけは消す事が出来なかった。いつでもどんなときでもこの音だけはアリアの中に響いていた。
だから、この音はいつかアリアを殺すと思っていた。うるさくてうるさくて仕方が無かったから。

彼女の腕の中に居るクロエはもう動かなかった。
ファルシオンは手を伸ばし、見開いたままだった瞼をそっと閉じ、彼女の前に屈む。
上の空といった様子で彼女は続けた。
アリアは世界が嫌い。アリアを受け入れてくれない世界なんて嫌い、大嫌い。消えてもよかった。
だから言った。アリアを取り巻くこの雑音だらけの世界を捧げると。

でも、と彼女が呟くと彼女の腕から何かが落ちた。
それを拾う――それは、幾度も破った後の見える写真。破ってはテープで直したらしい古い写真。
睨むような目つきの女の子と、満面の笑みでこちらを見ている女の子二人の写真。
今ここに居るこの二人の面影を残した女の子二人の写真だった。
クロエを憎んでは憎みきれていなかった、彼女の心情に気づく。
――でも、この世界にはクロエが居た。
クロエだけはアリアをいつも追いかけてくれていた。本当はその事に気づいていた。
だから、捧げると言った後――アリアは後悔して、恐くなって天使から逃げた。
そうしたら天使は怒ってアリアに出来損ないの力を与えた。

――そうか。
ようやく全ての謎が繋がり、ファルシオンは大きく息をついた。
そして、無表情なままでクロエの頬を撫でていた彼女に手を伸ばす。
彼女は触れられた瞬間脅えたように顔を歪ませたが、ゆっくりと目を閉じた。
「――聞こえるかい?」
アリアの耳を両手で塞いでいたファルシオンが言う。
「この音が聞こえるかい?」
うん、と小さく頷く。
「――聞こえるよ、お兄さんの鼓動の音。雑音だらけの世界でアリアはずっとこの音を聞いてたから」
ファルシオンは手を離し、彼女の手を取って両手で耳を塞がせた。
アリアは顔を上げる。ようやく気づいたようだ。
天使が彼女に授けた力が不完全だった為に生まれた力が、彼女を最後まで助けていた。彼女が迷う事無く天使に捧げていれば、こんな事にはならなかっただろうが。
僅かに残っていた彼女のこの世界への慈しみが、彼女の世界を救った。
「この音はね、君の鼓動の音だ。ずっと君の中で響いていた唯一の音。
君が聞こえる全ての音を消そうとした時、君が生きてるっていう事を忘れないように、自分自身を守る為に響き続けていた鼓動。
心無き鼓動なんかじゃない。雑音なんかじゃない。
この音だけが、君が生きてるという事を教えていたんだよ」

呆然としていたアリアはゆっくりと手を離した。その乾いた頬を涙が伝っている。
アリアは俯き、目を擦り――小さく首を横に振った。
「――ううん。違うよ」
僅かに残っていた彼女の鼓動を拾い上げ、自分の中に響くあの音――鼓動と共に響かせる。
強く高鳴るこの鼓動だけが自分を支えてくれていたのではなかった。
響きあう二つの鼓動に身を委ねながら、クロエの胸に耳を寄せ――アリアは満足そうに目を閉じた。
「この鼓動とクロエだけが、アリアが生きていてもいいって教えてくれていたんだよ」
彼女の言葉に反応するかのように音が戻った。
霧が消え、太陽は暖かく輝き空は青々と燃え上がった。
「・・・・・天使は君を置いて行っちまったんだな」
彼女が捧げるのを拒否した世界が戻ってきたのだ。天使はあきらめたらしい。
力が抜けたように地面に腰を落として、唖然としているアリアに向かって彼は笑った。
「まぁ、とりあえずは――おかえり?」


しばらくしてクロエが目を覚ました。
胸を押さえ、自分の鼓動を確認してから辺りを見渡す。
「あ――・・・・・」
「・・・・・・・・・。」
何も言わないアリアを見て、クロエは上体を起こし無言で彼女を見つめた。
体は大丈夫と尋ねたファルシオンに頷きながらアリアを睨む。
アリアは目を合わせられずに俯いていた。
「・・・・・あんたの居た世界、ほんの少しだけど――わかったよ」
「・・・・・・・・・。」
下を向いたままの彼女の頭を抱え、抱き寄せてクロエは呟いた。
「・・・・・ごめんねアリア、あんなトコに独りあんたを置いてきちゃって」
されるがままクロエの胸の中で動かなかったアリアはうん、と頷き返す。
「・・・・・いいよ。クロエだけはいつもアリアを見つけてくれたから」










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