部屋に戻るとクロエが赤い目で呆然としていたので何となく雰囲気が読めた。
下のロビーで買って来た缶ジュースを机の上に置くと、自分用のアップルティーを手に取る。
「・・・・・あの子と・・・・・話せた?」
「・・・・・うん」
目を擦るがその甲斐も無くクロエの目から涙が溢れた。
声を引きつらせて彼女が言い放った言葉を反芻する。
「もう・・・・・手遅れだって。あんたなんかにはわからないって言われた」
「そうかぁ・・・・・」
「ねぇ」
ぼろぼろと涙を溢したままクロエは男に言い寄った。
「貴方たちは・・・・・一体何を見たの?天使って何?貴方は、何を手に入れたっていうの」
あの姿を見ていない者には理解しにくいという事は、見た者は良くわかっていた。
どうしようかと男は悩み――慎重に言葉を選ぶ。
「・・・・・僕は、二回天使を見た。いや、天使に見られたと言ったほうがいいのかな」

男が長い前髪を掻き上げる。
その奥に見えたものにクロエは唖然と口を開けてしまった。
左目は赤、右目は青の異色妖瞳ヘテロクロミア
明らかに染めたものではない、生え際から不思議な色合いを見せる紫の髪。
作り物ではない、人間ではありえない長さの耳。
全てが本物だというこの雰囲気。
男はクロエの反応に苦笑しつつ、両目を瞬かせた。
「一回目はまだ10歳になった頃だったかな。ちょっとした事故で気を失って――その時初めて天使を見た。その時は天使は何も言ってこなかった。ただ僕に手を伸ばしただけだった。けど、恐る恐るその手を掴んだ瞬間、天使は僕の中に入ってこようとした。
すんでのところで目を覚まして事なきを得たけれど――目が覚めたときにはもうこの髪と耳は変わっていた。これ、全部天使の夢を見た後に変わった姿なんだ。僕は元は君と同じような普通の人間だったんだよ」
金髪碧眼のね、と付け足す。
「そして二回目に天使を見たのは――君のお友達と同じ時だと思う。寒い冬の夜、夢を見て――でも僕は天使に何かを捧げろとは言われなかった。僕の右目に触れて自分の右目を僕に差し出しただ世界を壊せと言った。
そして捧げたものは何もないというのに力も与えられた。
――これが、僕が手に入れた力。魔術だ」
男が人差し指で虚空に向かって何かを描くと、その筆跡は光り輝く軌跡となり、まるで文字のように並べられた。
文字魔術ルーン・ソーサレス。前にも話した、亜人種である幻想人の内の一部族が使っていたとされる魔術と形式が似ているからそう名づけた。この文字の一つ一つに意味が込められ、媒体となってその意味を象徴、感染させる事が出来る。こんな風にね」
男が机の上にその文字と云う形を描くと、その机の上に一瞬にして光り輝く球体が浮かび上がった。球体は流動すると翼の様なものを広げてクロエの周りを回る。それはまるで光り輝く蝶のようだ。
「文字の意味を知れば効果をあらかじめ予想できる。抽象的な力ではなく具体的な力だから使いやすいし、使用者自身、僕への負担も少ない。
自分で言うのもなんだけど、今まで僕が見た世界を壊すという力の中では一番確実だよ思うよ。
試した事はないしこれからも試す事は無いつもりだけど――僕の力が世界を壊すという行為に一番向いている」
世界に関する人々の集合無意識の破壊。現実的な破壊。そのどちらも彼の力は壊す事が出来る。
そう、すでにクロエの意識の世界というイメージをこの男は壊した。
クロエの世界は変わってしまったのだ。
「・・・・・そうそう。まだ、名前を言ってなかったな。
僕の名前は、ファルシオン。
昔々に世界を破滅させた悪魔と同じ名前だ。だからそう付けた。
世界を脅かす者を悪魔というのであれば――僕はもうとっくに悪魔の一員だから」
ファルシオン。知っている。
黒十字教会がひた隠ししている悪魔の名前。その名は災いをもたらすと言われ、ほとんどの文献ではその名は消されている。クロエが知っていたのは、昔家庭教師として雇われていた男がそういった伝説に精通している男だったからだ。よく勉強をほったらかして彼の話に聞きいっていた。
その不吉な名はこの男によく似合っていた。
悪魔でも何でもいい。クロエは縋るような思いで願う。
アリアを助けてあげて、と。
部屋の中を漂っていた輝く蝶はクロエの肩に止まり、音も無く霧散していった。




* * * *




アリアは自分の部屋に戻った。
以前どうやらあの二人に入られたようで鍵は真っ二つに壊されてしまっていた。新しい鍵を見つけてこなくちゃと愚痴り、扉を開ける。
何も変わらない部屋。ただ自分の描くうるさいという文字ばかりが日に日に増えている。
ふらふらと寝床に向かい、倒れ込む。
うつ伏せでぼんやりしている途中――ふと気づく。
あの男のジャンパーを羽織ったままだった。どうりでいつもより外でも暖かく感じていたわけだ、すっかり忘れていた。
人に優しくされた覚えが少ないアリアには何故そんな事をする男の意図を計り知れなかったが、とりあえず暖かいのはいい事だと思った。
香水の匂いではないだろうが、ジャンパーからはどこか眠くなるような匂いがした。
包まるように体を丸めてアリアは枕元に置いてある壊れた写真立てを手に取る。
何度も破っては自分で貼り付けて直した写真。写っているのは、まだ小さい自分と――
アリアは飛び起きた。
音が――無数のあの鼓動の音が近づいてきているのを感じた。
得体の知れない予兆に体が振るえ出す。動悸が強くなり、アリアは乱れた呼吸をしながら窓から外の様子を伺う。
「――!?」
慌てて窓の下に座り込み、震える歯に指を入れて落ち着かせる。
窓の外には、アリアが住んでいる廃棄住宅街の中庭には――街の住人たちが大勢集まっていた。
好意的ではない。彼らから聞こえるあの音はとてつもなく攻撃的で、そしてその矛先は自分である事に気づく。
アリアは耳を澄まし下から聞こえてくる声を聞いた。全神経を聴力に注ぐ。

本当だ俺たちは見たんだあのガキが音を消して俺を殺そうとしてたんだあいつはヤバイほっとくとロクな事にならねぇよあの音無し騒ぎの全ての原因はあの少女らしい恐いわ何でそんな事するのかしらどうしてあんな危ない子供を野放しにしているんだだから言ったのよさっさとあんなガキ追い出せばいいって政府は何をやっているそんな力を持っている奴がこの街に居るってだけで恐ろしくなるわ捕まえてこの街から追い出すかいやここで殺した方がいいんじゃないのか殺すってまだ相手は子供だぞ子供と言っても俺たちにとっては危険な奴だここで命を絶っておかなければ後々災難が降りかかるかもしれないんだぞ奴は悪魔だ悪魔の手先に間違いないとにかくそんな危険因子を放って置くわけにはいかんあの子供を捕まえろ変な力を使おうとするならば殺してしまえ大丈夫だ正当防衛で幾らでもごまかせられるんだからななんせ多勢の不安と居るか居ないんだかわからない子供一人の命なんざ秤にかける必要すらないだろう。悪魔を殺して何が悪い?

群集の声は彼女を追い詰める網、群集の怒号は耳を劈く雑音としてアリアに襲い掛かった。
アリアは両耳を押さえ、部屋の中に蹲った。恐くて動けない。
――どうしてアリアだけがこんな目にあわなくちゃいけないの。
と、頭の中で声が響いた。覚えている、あの時の声だ。

――お前は世界に拒絶された
みんなはアリアを殺すの?
――さぁ、どうする。自分を削るか。世界を壊すか
アリアはそうでもしないと生きちゃダメなの?
――そうだ
・・・・・・アリアは死にたくない
――ならば

すでに暴徒と化し、彼女の住んでいた廃アパートの一階部分に火をつけた人々を見下ろしアリアは叫んだ。ありったけの怒りと憎しみとあきらめを込めて。

「みんな消えちゃえ」



* * * * *




外の様子が騒がしい。
窓から下を覗くと。尋常ではない雰囲気を纏った街の住民たちが一斉に同じ方向に向かっていた。
怪訝な顔で男――ファルシオンと名乗った――は呟く。
「祭りでもあるの?」
「え?そんなバカな・・・・・」
下を見たクロエは絶句する。
「な・・・・・何やってるのよ・・・・・」
「皆同じ方向に向かってるな。あの方向は――」
そうファルシオンが言いかけた瞬間に景色が一変した。
「なによ、コレ・・・・・」
「・・・・・・・・・。」
二人ともが押し黙る。
まだ太陽があって明るかった空は赤く燃え、太陽は黒く輝き、黒い光に浮かび上がった影が恐ろしく伸び、街中に不気味な色をした霧が立ち込めだした。
例えるならそれはまるで――世界の終わりのようだった。
だがファルシオンは口元を吊り上げ、早口で言う。
「いいや、これは世界の終わりじゃあない。
この街――アリアの世界の終わり・・・・・・・・・・だ。天使が具現しようとしている。あの子の力が完全なものへとなりつつあるんだ」
この光景を見た事があるらしい。彼は取り乱した様子も無く部屋のドアを開けた。
「そんなっ・・・・・・・」
「行こう。彼女を見つけるんだ」
「あ、待って!!」
ホテル内の人々も騒然としていた。その間をかき分け二人は通りに出る。
と、丁度通りを走っていた友人を見つけクロエは彼女を呼び止めた。
「ちょっと!!何処へ皆向かってるの!?」
「あ、クロエ!大変なのよ!!!」
友人は混乱した面持ちで彼女たちが向かっていた方向を指差す。
「あの音が無くなるっていう事件の犯人が見つかったんだって。でも、今度はそいつがこの街に住む私たちを殺そうとしているとかなんとかで、皆で止めに行ってるって・・・・・もう、何がなんだかわからなくて、何をしたらいいのかもわかんなくて・・・・・・」
「犯人って・・・・・・」
クロエの顔色が一気に青ざめる。
友人の少女は恐怖に顔を歪ませたまま言った。
「廃棄街に住み着いていた女の子なんだって」
絶望的に目を見開き――クロエはファルシオンを見た。
彼は苦々しい表情で辺りを見渡した。
「・・・・・・流言蜚語が飛び交って、街の人は大混乱してるみたいだな」
誰だって不安になるだろう、こんな状況ならば。
この街だけ世界の終末が来たかのような光景を目にしながら、人間は普通の精神ではいられない。何かに向けて感情を露わにしていないと恐怖に押しつぶされて自分の心が狂ってしまいそうだ。
「きっと街の連中はあの子を見つけたら殺してしまう。早くあの子を見つけないと」
クロエとファルシオンは群衆にまみれてアリアの元へと急いだ。
空はこの場に居る人々の心情を表すかのように不気味なマーブル模様に広がっていた。









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