――クセ、だったんだと思う。

気がつくとアリアは耳を塞いでいた。
ママが生きてた頃、いっつもママはアリアに悪口ばかり言ってた。意味はわかんない。わかりたくも無かった。
だから、ママがアリアに向かって手を振り上げて何か怒鳴っているときはいつも両手で耳を塞いでいた。
ママが連れてくる男たちの罵詈も、街の奴ら雑言も、何も聞こえてこないようにいつも耳を塞いでいた。

この世界はあまりにも雑音で満ちていたから。

アリアは耳を塞いで聞いていた。
自分の中にだけ響くあの音を聞いていた。




* * * * *




「・・・・・いたい」
アリアは顔をしかめる。
だが男は苦笑しただけで、止めようとはしなかった。
「じっとしてて」
「いたい。それやだ」
「動くともっと痛いよ」
「・・・・・ほっといて」
腰を引いて逃げようとしたアリアに男は困り顔でため息をつく。
そして観念したようにテーブルの上に置いてある菓子を指で指し示した。
「後でお菓子あげるから。ほら、腕も怪我してただろう。見せて」
渋々腕を差し出す。折れそうなほど細い腕を掴み、男は消毒液の染みこんだ脱脂綿で所々についている傷を拭っていった。


彼女が気がついた時にはベッドに寝かされていた。
部屋の中に居たのは男が一人。紫髪の、長い耳の男。
知ってる。クロエと一緒に居た男だ。
アリアが連れて来られた部屋はどうやらホテルの一室のようで、この男が借りているらしい。目が覚めたときにはこの男は椅子に座って本を読んでいた。


「――これでよし、と」
顔に付けられたガーゼを邪魔そうに擦りながらアリアは男を睨んだ。警戒心を募らせたままベッドの隅に座り込む。
「・・・・・あんただれ」
「ただの旅行人だよ」
「アリアに何の用」
「君とゆっくり話がしたくて」
「・・・・・アリアはそういう仕事してない」
「君みたいな可愛い子をお金で買う趣味は無いなぁ」
「・・・・・じゃあなんで」
「天使の話。君が知ってるって聞いたんだ」
「・・・・・クロエに?」
「うん。クロエさんに。・・・・・さっき連絡しといたから、すぐにこっちに来ると思うけど」
「・・・・・やだ。アリアは会わない」
アリアは立ち上がって逃げようとしたが、激しい頭の鈍痛に襲われ思わず座り込んでしまった。
「・・・・・・・・。」
「まだ動かない方がいいよ。頭を強く打ったみたいだから」
男は椅子に掛けていたジャンパーをアリアの肩に掛けると、軽々と彼女を抱き上げて再びベッドに寝かせる。
「・・・・・・・・・。」
アリアはぎらついた眼差しでじっと男を睨み、得体の知れない男に怪訝な顔を隠しもせず口を開いた。
「・・・・・あんたなに?なんでアリアに構うの?天使の事も・・・・・聞いてどうするつもり?」
「僕も見たんだよ」
唐突な言葉に、続けて捲くし立てようとしていた言葉を失う。
男はにっこりと笑ってアリアに持っていた飴を手渡した。
「僕も天使の夢を見たんだよ」
言葉を失っていたアリアだったが、しばらくして長い長いため息をつき――小さな声で呟いた。
「・・・・・あれは、天使なんかじゃない」
膝を抱え、その幼い顔には不釣合いな退廃した表情で続ける。
「あれは、そんな優しいものじゃない。少なくともあれは――アリアたちを救おうとは思っていない」
童話や絵画に出てくるような神聖さは欠片も無かった。人々を慈愛で包むという優しさは微塵も感じなかった。
ただその姿からあふれ出ていたのは憎しみの感情だった。
男は笑っていた。そうだね、と頷き返し両手を見つめる。

「むしろ――天使の姿をした悪魔なのかもよ」

そう呟く男の影が動いたような気がしてアリアは目を凝らすが、その後に響いてきた足音に注意を引かれた。男も立ち上がり、ドアの向こう側を見つめる。
「あの子かな?」
足音はいったんアリアたちの居る部屋を通り過ぎたが、すぐに戻ってくる。
そしてドアがノックされた。
「どうぞ」
「アリアっ!!」
ドアが開け放たれるや否や、制服姿のクロエが入り口から飛び出てきた。ベッドに座っていたアリアの肩を掴み、思わず彼女が身を引きそうな程の形相で尋ねかける。
「あんた、襲われてたって・・・・・!何かされなかった?どこも怪我はない?大丈夫??」
「軽い脳震盪起こしてただけだよ。たいした怪我もない」
再び仏頂面に戻って頑なに口を開こうとはしないアリアに変わって男が応える。
「まあ、外傷よりも・・・・・栄養失調の方が深刻みたいだけどね」
「そう・・・・・」
とりあえずは落ち着きを取り戻し、クロエは一呼吸してアリアから離れた。
そして壁にもたれて立っていた男に視線を向ける。
「あの・・・・・」
「ん?なんだい」
アリアに視線を移し、申し訳無さそうに言う。
「アリアと・・・・・二人きりにしてもらってもいい?」
男は快く頷くと、机の上に放置していた財布を持ってドアを開けた。
「じゃあ僕は下のロビーに居るから・・・・・何かあったらフロントあたりに連絡してもらって」
「うん、ありがとう・・・・・」
ごゆっくり、そう言い残して男の足音が遠ざかる。
足音が聞こえなくなるのを確認し、椅子に座る。
アリアはベッドの端にうずくまり、ぎらついた眼差しだけをこちらに向けている。その彼女に向かって、一言。
「・・・・・脅すわけじゃないけど・・・・・今日は逃げられないわよ」
「・・・・・・・。」
無意味な言葉だとは思ってはいたが、やはり彼女は憎しみのこもった眼差しで自分を睨むだけだった。
「ねぇ、アリア。いい加減教えてよ」
「・・・・・・・。」
ここで焦って怒ればいつもと同じだ。深呼吸をして感情を押さえ込み、もう一度聞きとめる。
「・・・・・ねぇ。どうして私がそんなに憎いの?」
いつもだったら応えない彼女に苛立って言葉を続けるところだったが――今日は黙ってみる事にした。彼女が何かしらの反応を見せるまで口を開く気は無い。
長い沈黙。もしかして彼女が音を消してしまったのではないかと一瞬思ったが、部屋においてある時計の針の音に気づき安心した。
不思議な事に心は穏やかだった。何を言われようとも覚悟は出来ている、そんな思いでいた。――その時までは。

アリアの笑い声で沈黙は終わった。

笑い声とまではいかないような小さな呼吸の乱れだったが、それはきっと彼女なりの笑い方なのだろう。肩を揺らして目を細めている。
初めて聞く彼女の笑い声に唖然とする――が、眉をひそめ問う。
「・・・・・何が可笑しいの?」
「・・・・・言ってもわかんない、って事」
久々に聞く声だった。顔に似合わない、低く擦れた声。
だが懐かしんでいる場合ではない。クロエはさらに問いただす。
「・・・・・どういう事?」
アリアは顔を上げた。その顔には冷たい侮蔑の笑みが浮かんでいた。
「あんたなんかに言ってもわかんないって事」
「なっ――」
思わず激昂して言い返しそうになり席から立つが、すんでのところで抑える。
「どうしてよ。そんなの、言ってみなくちゃわかんない――」
「言わなくてもわかる。あんたなんかには絶対にわからない」
今までに無い強い口調だった。

「金持ちが貧乏な奴の気持ちをわかると思う?
彼氏居る奴が、自分の事をまるで景色のように扱われる奴の気持ちをわかると思う?
今日何を着て遊びに行こうか悩む奴が、今日はどうやって食料を手に入れようか悩む奴の気持ちがわかると思う?
力の無い奴が――こんな小さな世界で満足して生きているような奴が、世界を変えられる事の出来る力を手に入れた奴の気持ちがわかると思う?」

クロエは何も言えなかった。
それは――自分と彼女の事を示しているのか。恐くて聞けなかった。
蒼い顔で押し黙ったクロエを見て、アリアは静かに言った。
「・・・・・ママが死んで、アリアが連れていかれた親戚の家から逃げ出した時――この街に戻ってきて一番に会いたかったのはクロエだった。
アリアはクロエしかもうわかってくれる人は居ないと思ってた。
裸足で家から逃げて、何も食べてなくて、ずっと走り通しで、ようやく辿り着いて、クロエの家の前に立って――アリアは気づいた。
アリアとクロエは違うんだ、って。
門の間から見たよ。クロエは暖かいお家の中でママと楽しそうにピアノを弾いてた。そこは暖かい部屋で、美味しそうなお菓子もあって、ママは優しそうで、皆幸せそうで――アリアが欲しかったものをクロエは全部持ってた。
それでわかった。
アリアをわかってくれる人なんて居ないんだって。アリアの居場所なんて無いんだって。
この世はアリアにとって、雑音のような、手に入らないくせにただただアリアを苛む――まるで雑音のようなモノしかないんだって。
だからその後見た夢で天使にお願いをした。天使が何かと引き換えに力をくれるって言ったから。

――アリアを包む雑音を捧げるから、世界を壊す力をちょうだいって。

クロエ、アリアは世界を壊すよ。
アリアが生きるには自分を壊すか、世界を変えるかどちらしかない。
だからアリアは世界を変える。壊してやる。
今まで自分を削って生きてきたこの世界に思い知らせてやる。天使がくれたこの力で」
無言でベッドから立ち、ドアを開けて去り行くアリアを引き止める事は出来なかった。
もう何もかも手遅れだと気づき、クロエはまた一人残された部屋の中で泣いた。


エレヴェーターでロビーまで降りると、ロビーの待合室にはあの男が居た。
周りの好奇の眼差しをものともせず新聞を読んでいたが、こちらに気づき口元を吊り上げる。
「・・・・・もう話は終わった?」
「・・・・・・・・・。」
何も言わないで居ると、彼は立ち上がりアリアの耳に顔を近づけた。
思わず後さずるが――呟かれた言葉に硬直する。
「さっきの力――特に、他人に干渉する力。あれは使わない方がいい」
「どうして」
アリアの肩からずり落ちそうになっていたジャンパーを男が掛け直す。
「さっきの事でわかっただろう。力に飲み込まれて君の命も危なかった。
――君は力を使いこなせていない。というか、その力は完全なものじゃあない。いつか、その力に飲み込まれて君は死ぬ」
思わず男の顔をまじまじと見るが、アリアは小さく吐息を吐いて呟き返した。
「力を使いこなせていても、いなくても――いつか、あの鼓動はアリアを殺すと思う」
今でも響いているあの鼓動。日に日に音は強くなり、もう眠る事すらままならない。
これを報いというのだろう。
が、ただ黙って死ぬのを迎える気は無い。
アリアに苦笑を向けながら、男は優しい声で背中を向ける彼女に言った。

「・・・・・そう。出来れば、君を助けたいんだけどな」

ホテルの自動ドアの隙間から出、アリアは街へと去って行った。









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