「今から――ちょうど、半年前の事だったと思う」


今日も街には噴煙が広がっている。
街を見下ろす事の出来る丘の上まで登り、クロエは隣に立つ男に淡々と告げた。
「何て言ったらいいのかわからないけど――その日から、度々街の"音"が消えるようになったの」
最初はたいして気にもしていなかった。
炭鉱のあったこの街は今では寂れ、代わりに先進国の大企業が建てた工場が所狭しと並びだしていた。工業排水が川には流れ、街は工場の煙突から出る煙に覆われた。
騒音もすさまじいものだった。工場地帯からわりと離れた学校だというのに授業中、教員の声が聞こえないという事は日常茶飯事だった。
急速に早まった公害問題に街の住人たちは議会に法案を訴え、今でもその審議が行われている。自治会の議長を務めるクロエの父親もその論議に頭を悩ませていた。
「それで最初は、工場側が住民の事を懸念して騒音被害を少なくしたと思ってたの。
――でも、違ったわ。
工場の騒音どころか――街全体の音が消えだした」
クロエが異常に気づいたのは、彼女の母親が趣味のピアノを弾いている時だった。
その日は珍しく工場地帯の騒音が聞こえなかった。母親と今日は静かね、と話していたのを憶えている。
「目の前で母が弾いているピアノの音が小さくなっていく事に気づいたの。母と一緒にピアノの調子を調べても何の異常も無かった。
そして――次第に私たちの声も消えていったわ」
身近に居るというのに母親の声が聞こえない。母親も異常に気づき、口をパクパクと動かして何かを言っていた。
クロエは辺りを見渡して驚いた。
中庭にある噴水の音がしない。吠えているはずの愛犬の泣き声も聞こえてこない。家の前を通っている自動車の音が聞こえてこない。
全ての音が消えていた。
「その後すぐに音が戻ってきた。結局原因もわからないまま、その日は二人で不思議がって・・・・・その事を他の人に聞いても誰も知らないと言っていた。だから私たちもそんなに気にせずに居たのよ。
けど、その後に――」
「――待って」
と、それまで無言で話を聞いていた男の長い耳が唐突に動いた。指で口を押さえ、辺りをうかがいだす。
クロエも言いかけていた言葉を噤む。
「――音が――」
風の音が止み、クロエたちを取り巻いていた全て音が消え、耳が痛いほどの静寂が訪れた.
まただ。クロエは不安げに男を見る。
男は笑みを浮かべたまま街を見下ろしていた。そして何かを呟いたのがわかる。
その後、次第に音が戻って来た。
クロエは耳を指で軽く叩き、声を出す。
「あーあー。
・・・・・こういう事なの。今のはわりと短かかった方だけど」
「こりゃ参った。本当に音が消えるとは」
男は全くもって参ったとは思っていないような口調で両手を挙げた。
「一筋縄ではいきそうにないね」
だからこうやって私が必死で調べてるんじゃない、とクロエは胸中でぼやく。飄々とした男の態度に不信感を持っていた。
憮然とした表情のまま、続ける。
「・・・・・前までは音の消える時間が短かったり、ごく一部の地域だけ音が消えてたりしたわ。
けれど、日に日に間隔が狭まってきたり、この現象の起きる範囲が広がってきたり――」
背筋に悪寒が走り、クロエは自分の体を抱きしめた。
「・・・・・恐くなるの。音が消えて、何も聞こえない世界で、唯一聞こえてくるのは自分の鼓動ばかり・・・・・。
確かに今までは音が消える事以外には何にも被害とかはないわ。
けど、いつかその自分の鼓動すら消されてしまうんじゃないかって思うと――恐いのよ」
遠くから学校のチャイム音が聞こえ、クロエは安堵するかのように長い吐息を吐いた。


「僕はしばらくこの街に滞在してるから。何かあったらこのホテルに連絡なりなんなりして」
帰り際、クロエの家の近くまで送ってもらう途中、男にホテル名と部屋番号の書かれた紙を手渡される。
それを書かれた内容を見ながらクロエは何気なく尋ねた。
「・・・・・貴方、一体何者なの?新聞記者?フリーライター???」
「どれもハズレ。ただの旅行人だよ」
あきらかな嘘を言う男を睨む。男は涼しい笑みを浮かべているだけだった。
「・・・・・なんでただの旅人がこんな事件を追ってるのよ。妖しいわ」
「ただの興味本位だよ。似たような事が結構起きているからね」
その言葉に目を丸くする。
「・・・・・他でもこんな事起きてるの?」
初耳だった。
ここ最近、この街から出た事は無いが情報網はあるというのに――
「あんまり口外されてないからね。黒十字教会を気にして報道もシャットアウト」
クロエの沈黙を肯定するかのように男が応える。
「だから調べているのさ。
半年前、世界終末のカウントダウンを始めた黒十字教会に、それに合わせた様に世界各地で起きる謎の怪奇現象・・・・・。
半年前から――世界は何処かおかしくなってしまった気がしないかい?」
前髪の間から覗く男の瞳は異様な光を湛えていた。
その底知れぬ深みへと入り込もうとする男に、何故かクロエは畏怖の念を感じる。
自分はもしかして、後戻りも出来ない事件に首を突っ込んでしまっているのか。そんな事を暗示させる様な男の気配。
男は去り際に一言言い残して行った。
「そうそう、言い忘れてた。
・・・・・半年前から何か様子がおかしい知り合いが居たら――また、教えて」


足が震えていた。
男と別れた後、早足で自分の家へと向かう。
――黒十字教会?各地で起きる怪奇現象??なによ、それ。
思いもしなかった単語へと繋がっていった展開に自分が酷く脅えている事に気づく。
――ただの片田舎で起きてる事なのに?黒十字教会なんて、この街には信者も居ないんだし――なんだっていうのよ、一体!
思わず壁を蹴りつける。
痛みに耐えながらクロエは自分の家を囲む壁の下まで辿り着いた。家には明かりが点いている。お手伝いか母が居るのだろう。彼女の家には常に誰かが居る。
壁伝いに道を歩き、正面玄関へと角を曲がり――クロエは立ち止まった。
クロエの家を見上げている、小さな人影が一つ――思わず声を上げる。
「アリア・・・・・・・」
名を呼ばれ、影が振り返る。
伸ばしっぱなしのぼさぼさの髪に、折れそうな程の細い体。
間違いない。一月ぶりに彼女を目にする事が出来た。
だがクロエが駆け出そうとする前に彼女は身を翻してしまった。
「アリア、待って!!」
慌てて追いかけるものの彼女は足が速い。その華奢な足のどこにそんな力が眠っているのかは知らないが――昔から、かけっこで彼女に勝った事は無かった。
彼女に向かって叫ぶ。
「アリア!!どうして――」
光の届かない路地裏へと消える彼女に向かって叫ぶ。
「どうして――そんなに私を憎むのよ!!」
無論、答えなど無かった。
彼女の遠ざかる足音だけが聞こえてきた。



* * * * *



「どうしたのこんな時間に。女の子が一人で来る時間じゃないな」
扉の向こうにはあいかわらずの男の姿。困ったような表情で自分を見下ろしている。
シャワーでも浴びたのか、微かに石鹸の匂いがした。
クロエは肩で息をしながら言う。
「――聞いて欲しいの」
クロエの様子に察したのか、男は何も言わずに彼女を部屋の中へと招き入れた。
部屋の中はいたって普通だった。備え付けのホテルの備品意外にあるのはベッドの上に置かれた鞄一つ。
差し出されたジュースを飲みながら息をつく。
「――で。話って?」
椅子の背に顔を乗せて男が呟く。
「歴史系の家庭教師なら出来るけど」
「さっき、半年前から様子がおかしい人とか言ってたでしょ」
男の冗談を無視して詰め寄る。
「・・・・・居るの。私の幼馴染の子で一人。
あなたが言ったとおり、半年前から様子がおかしいの。それに――」
深呼吸をする。
「――天使の事も。私、知ってたの」
クロエがその話を聞いたのは半年前。
――変な夢を見た。天使が空から降りてくる夢。
それが彼女――アリアの口から聞ける事の出来た最後の言葉。
ちょうど、聖夜祭の日だった。
「天使の夢の話を聞いた事、最初は気にもしなかったんだけど・・・・・この前図書館で変な本を見て。恐くて誰にも言えなかった」
本、と聞いて男の耳が動いた。
「――シオンに降りし天使は歌う
彷徨う子羊よ 祈りと願いを込めよ
世界を導く戦列の神々へと 贄を捧げよ
その名を呼び 命を捧げよ
終末のきざはし 世界の終焉
苦しみと畏怖 魂を持ちて 歓喜せよ」
呪詛のように男が浪々と読み上げた言葉を聞き、クロエは声を震わす。
「それ・・・・・!どうして・・・・・」
「黒十字教会の経典の一部さ。"きざはしの歌"っていう一節らしい」
テーブルの上においてあったペンを指で回しながら続ける。
「黒十字教会の言うところによれば――この荒み切った世界を救う為に、空から天使が降臨するらしい。
天使は自分がこの世界に具現化出来る様に使徒を遣わし、最終的に世界の変容の裁定者として現れるんだとさ」
クロエの頬を冷や汗が伝う。
「な・・・・・何か・・・・・真実味があるわね」
心ののどこかでは冗談であって欲しいと思っていた。
天使の降臨。その夢を見た幼馴染。変わってしまった彼女。
「――天使の夢を見た人はね。その天使とやらに選ばれたんだよ」
男は彼女の心情を見据えたかのように口元を吊り上げた。
「彼らはね――この世界を壊すための力を天使に与えられたんだよ。
つまり、教会の言うところの"使徒"。
そんな人々が、世界中で現れているんだ――」







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