港での攻防

 砦跡へと続く坂の一番下にアースとアリアはいた。
 雨振りの中アリアは拾った貝殻を道端に並べていたが、こちらへと顔を上げる。
「やっぱりファルシオンだ。アリア、ファルシオンが歩いて来る事ちゃんとわかってた」
「すげぇな、便利な力だ」
 彼女の横で海の方角を見ていたアースが感嘆の声を上げる。そしてこちらを見て苦笑した。
「どうした。もう日没だぜ」
「最後の見回りにでもと思ってね」
 彼女たちがいる場所まで歩いてからファルシオンは立ち止まり辺りを見渡した。
「……本当に誰もいないんだな」
 街はまるでゴーストタウンのように静寂さで満ちていた。日常の風景はそのままに、人の姿だけがない。近くの家には夕食に飲む予定だったのだろう、酒樽が玄関に置かれたままだった。
「住民は皆避難し終えてるからな……後はまぁ、あの自警軍の隊長さんが取りまとめてんだろ」
「混乱はない?」
「そりゃあ多少は混乱しただろうさ。攻めてきた敵の正体がわからない。けど、この街は戦争に慣れてっから」
「この街や周辺集落の……独立戦争だっけ。あんたも参加してたらしいな」
 コアントロゥの話を思い出した。彼は傭兵だったという。
 ファルシオンはアースの横に置かれてあった樽に腰掛けた。アリアが貝殻を並べ終え、その間を飛び跳ね回って遊んでいる。
 しばらく二人は海を見ていた。重い雨雲は少しづつ藍色に染まってきている。
「……なんで」
 アースが顔を上げる。
「なんで、ノチェロたちの父親代わりになろうと思ったのか、聞いても?」
 ファルシオンの質問に彼は小さくため息をついた。それでも口元は笑っていた。
「ノチェロに聞いたのか。あいつは俺の事嫌ってるからなぁ」
「嫌ってるってわけじゃあないと思うけど……」
「あいつの親父は俺と同じ部隊だったんだ」
 腰掛けていた木箱に体重を乗せて彼は背伸びをした。
「森の中で最後の抵抗を続ける政府軍を追って、俺たちは森の中で野営していた。けどそれまで飯を作ってた衛生兵が負傷してな、代わりにイザラが──それがノチェロたちの父親の名前だけど、そいつが飯を作った。それが美味くてな、そこで初めてイザラと喋ったんだ。あんたの作った飯最高だったぜって。
 それが初めての会話だったなんて嘘のようだった。イザラとはすぐに意気投合して、丁度見張り当番も一緒だったからそれから話をしていた。あいつは家族の話ばっかりしていたよ……故郷に残してきた幼馴染の妻と、息子と、戦場にいたときに生まれてまだ見た事のない娘の話。嫁さんから送られてきた写真片手にずっと喋ってた。戦争が終わったら故郷で料理店を開くつもりだから、あんたもぜひ来てくれって事まで言われたんだ」
「それで仲良くなったんだ」
 ファルシオンの相槌にアースは寂しそうに笑う。まだ続きがあるのだろう、こういう場合には恐らくは悲劇が。
「次の日、追っていた政府軍が降伏した。俺たちはその知らせを聞いて壕の中から飛び出して喜んだ。戦争が終わったってな。イザラは少し離れた壕にいたが、俺を見つけて壕から駆け出した。アース、故郷へ帰れるぞって叫びながら……そこで頭を撃たれてイザラは地面に倒れこんだ。
 上が降伏した事で錯乱した政府軍の兵士の一人が、ところ構わず発砲して最後は自分のこめかみ打ち抜いて自害したんだ。イザラはそれに巻き込まれて撃たれた。即死だった。あいつはその戦争の最後の犠牲者になった……まったく意味の無い犠牲だ」
 彼はポケットに入れていた皮の財布から小さな写真を取り出した。彼の肩越しにそれを覗き込む。
「引き上げになって、俺はイザラの持っていた遺品を家族の元に届ける為にこの街に来た。この写真を見ながら港で待つあいつの家族を捜して、見つけたとき俺は思わず絶句したよ。まだ首も座ってないような乳飲み子を抱いた若い女と、こんな小さな坊主だったんだ。こいつらを残してあいつは逝っちまったのかよってさ……。
 イザラが死んだ事を伝えてたら嫁さんは気絶して、坊主はわぁわぁ泣き出して、しまいには赤ん坊も泣き出して俺もテンパってな、なんとか嫁さんかついでそいつらの家まで行って面倒見てたら、もう五年が経ってた」
 あまりにも早い展開に、それまで神妙に話を聞いていたファルシオンは目を何度か瞬かせた。えっ、と声を上げる。
「……それが理由?」
「まぁ理由というか馴れ初めというか。俺の立場はそんときのままだ。イザラのたった一日だけ一緒に過ごした友人」
 思わず唖然とする。そんな彼を見てアースは苦笑いを浮かべた。
「シャルトリューズとは籍に入ってない。ただの居候だよ、俺は。家族じゃあないんだ」
 アースは話を終えると立ち上がり、空を見た。
「雨は止まなかったな。……不利だがやるしかない。もう、日が沈む」
 と、彼は背後にそびえる砦跡に視線を向けた。目を細めて呟く。こちらへと問いかけているのではなく、独り言のようだった。
「……なんであのとき、あいつらと一緒に暮らしたいと思ったんだろうなぁ」

 
* * * *


 自分の持ち場に戻ると、パンプルムーゼが剣を片手にティフィンに怒っていた。
「よりにもよってなんでこんな剣を持ってくるんだ!」
「ひー、ごめぇん、痛い痛い」
「もう日没だ。どうしたんだ?」
 呆れながら聞くとパンプルムーゼは持っていた剣を突き出して不機嫌な顔で応える。
「どうしたも何も、剣を管理課から持ってくるように頼んでおいたらまったく使えない魔剣を持ち出してきたんだ、こいつ」
「だってさ〜、緊急時なんだから珍しいもの使ってみたくない?あーっ、刺さないで、刺さないで〜」
「魔剣?これが?」
 彼女の持つ剣を見る。美しい装飾の施された鞘に入った、青い金属の柄を持つ剣だったが特に特徴があるわけでもない。しかしパンプルムーゼは眉間にしわを寄せて剣を鞘から少し引き抜いた。
 瞬間、柄にくくり付けられた宝石から植物の蔦が勢いよく伸び出し彼女の腕に絡みつく。そして蔦からは青い薔薇が咲き始めた。ファルシオンはそれを見て感嘆の声を上げる。
「へぇ、綺麗だな。どうなってるんだそれ?」
「呪いの魔剣だよ。銘は青薔薇の剣《アズラクシャスラ》。幻想人の英雄が使っていた剣で強力な呪いがかかっている……使用者の魔力を食い尽くすんだ、あっという間に。……ほら、もう吸収している」
 彼女は説明しながら柄に刻まれた紋章に触れた。青い薔薇が弱りだし腕に食い込むほどきつく絡まっていた蔦が緩む。
「今では呪いの研究が進んで、多少の制御ができるようになってはいるが……これを使っていると燃費が悪くてしょうがない。すぐに魔力が尽きて倒れてしまう」
「切れ味はすばらしいんだけどね〜」
 他人事のように呟くティフィンに厳しい眼差しを向けてパンプルムーゼは剣を鞘に戻した。青薔薇が枯れて砂になる。
「とにかくこんな剣は私には扱えない。他に何かあるだろう?」
「えぇ〜、いいと思ったんだけどなぁ〜。ならこの剣はどう?」
 ティフィンは口を尖らせながら今度は細身の剣を彼女に手渡した。それを見てパンプルムーゼは半眼になる。
「砂竜の骨剣か。……何で呪いの魔剣ばっかり持ってきているんだ」
「案外簡単に持ち出せるんだよね〜。厳重に保管してあるって安心しきってるから部長も」
「まぁいい。私はこれを使うか」
 そう言ってパンプルムーゼは青薔薇の剣をこちらに差し出してきた。
「何だったら君がこの剣を使うか?」
「呪いがかかってるんだろ、それ。第一剣なんて使った事がないよ」
 恐々と剣を受け取る。意外にも重量があった。
 パンプルムーゼは苦笑して自分の剣を腰のベルトに引っ掛けた。
「まぁ護身用に持っているといい。戦場では何が役に立つかわからないからな」
「一応借りておくけど……」
 剣に巻かれてあったベルトを伸ばして背中に背負う。と、そこでふと疑問が頭の中に浮かんだ。
 ティフィンの軽口に悪態をついていたパンプルムーゼに尋ねる。
「そんな呪いがかかっているんだとしたら……その、この剣の持ち主の英雄はどうやってこの剣を扱っていたんだ?幻想人種族だったんだろ?」
「どうやってだと思う?」
 問いを返されファルシオンはあごに手を当てて考え込む。
「……食い尽くせないほどの強大な魔力を持っていた、とか?」
「逆だよ。それのまったく逆」
 パンプルムーゼはけらけらと笑いながら剣を指差した。
「魔力をまったく持っていなかったから、この剣を扱う事ができたらしい。魔力主義の幻想人種族の中でもそんな英雄がいたんだな」
 のほほんとしていたティフィンが声を上げる。
「奴らが動き出した。港に転移してくるよ」
 ファルシオンたちは口を噤んで港を見た。
 港から離れた場所に停泊していた黒い船が動き出し、同時に次々と港の沿岸に先ほど見かけた転移魔術の紋章が浮かび上がる。数人単位で港に獣人たちが転移してきた。
 そして突入してくる者をすべて転移させた最後に、リーダーの虎耳の男が港に降り立つ。その姿を確認してパンプルムーゼが囁いた。
「リゲル・パントラだ」
《この街の住人に告げる!》
 肉声ではない声が響き渡った。虎耳の男──リゲル・パントラの声だ。
《我々はこの世界のむこう側から来た!偽りと欺瞞に満ちたむこう側の支配から立ち向かう為に、この街に我等の国を造る。逃れたければ去れ。抵抗するならば容赦はしない!》
「……有無を言わせない一方的な宣言だな」
 高慢な内容に呆れながらファルシオンはじっと獣人たちの動きを見ていた。
 沈黙が続く。だが、唐突に獣の鳴き声が街中に響いた。獅子とも狼とも言えない大地を揺るがすような低く力強い声。
《奪えるものなら奪ってみるがいい!この街は簡単に負けん!》
 アースの声だ。自分たちがいる場所からその姿は確認できなかったが、獣の姿になっているのだろう。
 しばらく立ち尽くしていたリゲル・パントラが獣人たちに何かを叫んだのが見えた。
《……忠告はした》
 それが戦の合図だった。
 獣人たちが一斉に港から散った。
 パンプルムーゼたちの予想通り、最初に突入してきたのは足の速い獣人たちだった。薄明かりの中で確認したその姿は皆一様に足が細く華奢だ。
 だが彼らが沿岸の倉庫へと入ったところで爆発音が響く。少し遅れて怒号と悲鳴が聞こえてきた。恋路や自警軍の仕掛けた罠に掛かったのだろう。時折閃光が走り、屋根の上を飛び回っている恋路の影が視界を過ぎった。
「レンジたち、上手くいってるみたいだ」
 転移魔術の光が消えたのを見てファルシオンは呟いた。獣人たちを動けなくした後にはティフィンが彼らを転移させて拘束するという手はずになっている。
「……伏兵がいる事も彼らに知られているだろうしこれからが厄介だな」
「今日は月が出ていない。幸運だったな」
 空を見上げてパンプルムーゼが言った。彼女の言葉に聞き返す。
「月?……あー、獣人は月を見たら変身するとか?」
「獣化は昼でもできる。だが月の夜に獣化すれば彼らは理性を失くして更に凶暴化するんだ」
 投げやりに口にした事柄に頷く彼女を見て、ファルシオンは「へぇ」と軽く呟いた。
 と、悲鳴が聞こえて視線を港へと移す。南の路地へと入り込んだ獣人たちが罠に掛かっていた。あちらは迷路のように複雑に路地が連なっている。簡単には逃げられない。
 個別に分けられて隔離された獣人たちを恋路が追っていった。
 ファルシオンたちも東側からこちらに近づいてくる獣人たちを迎え撃つ為に身構える。向かい側の塔にいる狙撃兵も銃を構えていた。
「八人……一人ずつあの狙撃兵が撃つのは難しいな」
「来たぞ」
 パンッ、という乾いた音が一回響いた。獣人たちの内一人が倒れる。
 そのまま続け様に狙撃兵は三人の足を撃ち抜いた。残る五人が散り散りになる。五人は物陰に隠れてこちらの居場所を探ってきた。だが赤外線熱探知レンズを持った狙撃兵は彼らの位置が見えている。顔を出して弓を引こうとした獣人の肩を彼は撃ち抜いた。
 ファルシオンは足音を殺して建物の屋上を移動し、建物の影に隠れていた獣人に向かって文字を描いた。文字が輝きだし細かい放電が生じる。それを地上へと振り下ろした。
 鋭い音を立てて放電は獣人を巻き込んで辺りに広がった。雨で感電して少し離れた場所にいた獣人の一人も悲鳴を上げ感電した。
 放電から免れた獣人たちがこちらを見つけて何かを叫ぶ。そして足を撃たれてうずくまっていたはずの獣人たちがそれぞれの武器を手にこちらに向かってきているのが見えた。ファルシオンは思わず感嘆の声を上げた。
「もう動けるのか、すげぇ」
「感心してる場合か。感電した連中もすぐに動けるようになるぞ」
 そう言ってパンプルムーゼは飛んでくる矢を避けながら腕を伸ばした。聞き慣れない呪文を唱え出す。
 突然無数の植物の根が地面を割って伸び出し、獣人を巻き込んで急速に成長していった。パンプルムーゼは伸びる木々の枝をまるで自分の腕のように動かし、逃げる残りの獣人を捕まえていく。
「三人──捕まえたぞ!」
 パンプルムーゼの合図と共にファルシオンは再び文字を描いた。今度は先ほどの術よりも威力が高い。
 獣人たちの足元に文字が浮かびその文字から稲妻の柱が空へと向かってのびた。耳をつんざくような激しい音と閃光が走る。
 パチパチと乾いた音を立てて放電が終わると、獣人たちは黒焦げになって失神していた。
「……これでも死なないのか。手加減が難しいな、使える術も限られるし……」
 術を受け砕けた樹から落ちる獣人たちを見てファルシオンは呟く。パンプルムーゼは彼の背中をぽんと軽く押した。
「文句を言わない。まだまだこれからだぞ」
「文句じゃないけどさ。手違いで、なんてありそうで……」
 口を尖らせて言い返す。ティフィンに転移の指示を出してから彼女は腰に手を当てて言った。
「人を傷つける事に慣れてはいけないよ、いかなるときでも。だから慎重に推考しなければならない」
 まっとうな彼女の言葉に頷きかけたところでファルシオンは半眼になった。
「……手馴れた様子でさっき相棒に関節技決めてたのは?」
「あれはいいんだよ、喜んでいるのだから。奴は被虐嗜好さ」
 さっと視線をそらしてパンプルムーゼは後方を見渡した。
「フェニックス殿の方もなんとか撃退できたようだ……今のところ、街にも被害は無い」
 ファルシオンはティフィンに念話で話しかけた。皆、彼と念話ができるように先ほど文字を体に刻まれている。
《ティフィン、拘束できたのは今何人だ?》
《あ、ファルシオンくんですね〜。えーと、今のところ二十一人です》
 のんびりとした応えが返ってくる。ティフィンは港から少し離れた場所で結界を張って獣人たちを身動き取れないよう拘束している。
《リゲルの感覚域が港からさらに街の方向に広がろうとしています。何とか僕が抑えてはいますが、気をつけてくださいね〜》
 ティフィンとの念話が終わると、丁度ベルトにつけた小型通信機から声が聞こえた。
『ファルシオン。聞こえるか』
 コアントロゥの声だ。返事をする。
「聞こえてる。そっちは大丈夫?」
『今しがた六人拘束した。が、こちらも二人やられている。重傷ではないが彼らは下がらせる……銃で足を撃ち抜いてもすぐに起き上がってくる、奴らは何者だ?これが世界のむこう側という場所から来た人間か?』
 彼の疑問には答えられそうに無い。ファルシオンも突然の展開に翻弄されている。だが、それでも──
(世界にむこう側がある事を知っても、自分の由来を知っても……そんなに驚きはしなかったな。どうしてだか)
「また攻めてきたぞ。南に七、東からは六だ」
 パンプルムーゼの声に我に返り、ファルシオンは顔を上げた。
 彼女は敵のを目で追いながら舌打ちをする。
「今度は散りだした。一人ずつとはやっかい──」
 突然言葉を切ってパンプルムーゼはファルシオンを押し倒した。何をするのかと聞く間もなく、一瞬前まで頭があった場所を無数の矢が過ぎる。
 身を屈ませながら彼女は剣を抜いた。
「狙われているようだな」
 大きく弧を描いて飛んできた炎の矢を剣で弾き、呪文を唱える。彼女の魔術で建物の屋上から樹が生え出し一帯を覆った。
 その枝の上を走り抜けパンプルムーゼは剣を地上の獣人へと向けて振り下ろす。炭酸が弾ける様な音を立てて刀身が分解した。砂となった刀身が霧散し避けようと跳躍した獣人に帯状に降り注ぐ。
 避けられないと判断して受け止めた剣とその剣を持つ獣人の腕ごと、パンプルムーゼの剣は易々と切り裂いた。これが幻想人種族の残した魔剣──!
 それを視界の隅に入れながらファルシオンは隣の建物へと枝を使って渡り、下に向けて文字を描いた。眼下には弓を構えた獣人が二人いる。だが彼の生み出した光熱波が彼らの足元に突き刺さる前に、彼らの姿が一瞬にして消えた。地面だけをえぐって術が炸裂する。離れた場所にいたパンプルムーゼが叫ぶ。
「上だ!」
 上空に紋章が浮かび上がり獣人が紋章から姿を現した。
 獣人は持っていた両手斧を体重をかけて大きく振りかぶるが、ファルシオンは大きく仰け反ってそれを避けた。斧はコンクリートで出来た床を大きくひび割らせ、ガラスのように砕いた。
 間を空けず、筋肉隆々とした大柄な獣人──熊の類ではないだろうかと推測した──は振り下ろした斧を軽々と持ち上げ、体勢を崩していたこちらの足を払った。足を取られファルシオンは転倒する。だが仰向けに転倒した事は幸いだった。
 頭めがけて振り下ろされる斧を見据え、倒れこんだままのファルシオンは両腕を伸ばし文字を彼に突きつけた。文字が輝き出して一気に膨れ上がる。爆発が目の前で起きた。
 小規模とはいえ真正面から爆発を受け、獣人が顔面を覆って地面に膝をついた。押さえた両手から血が滴り落ちている。
 ファルシオンは勢いをつけて立ち上がり、怒りと痛みに任せて斧を振り回す獣人の背後に回って彼の背中に手を置いた。掌にはあらかじめ描いておいた文字が一つ。
 パチィッ、と甲高い音を立てて電撃が走り獣人の体が大きく震えた。重い音を立て彼の体が地べたに沈む。
 もう一人は──と、視線を辺りへと巡らせたところでパンプルムーゼがもう一人の獣人の腕をへし折ったのが見えた。悶絶する獣人の顔面に膝蹴りをし、さらに彼の背中に組み合わせた両拳を打ち付けて地面に叩きつけ、その背中を踏みつけながら術を使い樹の枝を伸ばす。
 完全に失神している獣人を枝で縛り上げてから彼女はこちらを振り向いて走り寄ってきた。
「ファルシオンくん、大丈夫か」
「……なかなかにえぐい倒し方するね、あんた」
 爆発音にやられ眩暈のする頭を手で押さえながらファルシオンは呟いた。顔に軽い火傷を負っていることに気づき眉をしかめる。自らも爆発を真正面に受けたのだから仕方が無い事ではあるが。
 パンプルムーゼは剣を鞘に戻すとティフィンに話しかけた。が、すぐに表情を強張らせる。
 倒れていた獣人たちが転送されてから彼女はこちらに告げた。
「向こうには二十人近くの獣人たちが攻めてきたらしい……その攻防の中でフェニックス殿が負傷したそうだ。それにこの街の兵にも負傷者が出た」
「レンジが?」
「……彼の怪我はそう深くないらしい。今、ベヘモト殿が負傷兵を砦跡へと送っている。人手が足りないな」
 ファルシオンは通信機に話しかけた。
「コアントロゥさん、そっちは大丈夫か?」
 やや遅れてコアントロゥのくぐもった声が小型通信機から聞こえてきた。 
『隙を取られ接近を許してしまってな、あまりの素早さに手も出せなかった……君の連れに助けられた。申し訳ない』
 彼らを襲った獣人たちの中に術を扱うものもいたらしい。恋路と、彼らと合流したアースたちによって獣人たちは何とか拘束し終えた。
 ファルシオンは少し考えてから彼に言った。
「……やっぱり、ここは俺たちで守る。あんたたちは砦にいる隊と合流したほうがいい」
『しかし、このまま──』
 食い下がるコアントロゥにファルシオンはなるべく感情を抑えた声で言った。
「アースはあんたたちも含めて、この街の皆を守るつもりだ。だから、彼の負担を少しでも減らそうと思って俺たちもここに残ってる。……酷な言い方だとは思うがあんたたちがいれば彼は満足に動けない」
『…………。』
 彼の声ではない喋り声が聞こえてきた。周りは騒々しく、通信機からはノイズが聞こえてくる。
『……奴らは魔法のような技も使う……我々の戦という範疇を超えている。対処は困難だな』
 雑音交じりで聞こえづらかったが、それでも彼の口調からは悔しさが滲み出ていた。
 コアントロゥたちは撤退した。
 近場にいた狙撃兵も撤退の命令を受けて塔から降り、こちらを見上げて叫ぶ。
「すまない……頼んだぞ!」
 彼に手を上げて応え、屋上の手すりにもたれかかりながらファルシオンは黒船へと視線を移す。
「さて……俺たちでここを死守しないといけないわけか」
「草食系獣人はあらかた拘束した。残るは手ごわい相手だ」
《ファルシオンくーん。聞こえますか〜》
 突然脳内に緊張感の無い声が響きファルシオンは肩を落とした。ティフィンだ。
《聞こえてるよ……》
《リゲルの感覚域が広がってます。先程も獣人の転移に気を取られてて僕の感覚域を突破されちゃいました〜。ごめんね》
 素直に謝られ何と返そうか迷っているうち、ティフィンが変わらない調子で続けた。
《それで、今もリゲルと攻め合ってるんだけど──》
 かつん、と何かが手すりに当たったような音がしてファルシオンは下を見た。
《負けそう。転移してくる》
 手すりに手をかけ、壁に足をかけてこちらを見上げているのは獣人の男だった。大きく口を開き鋭い犬歯を見せて威嚇している──
「──っ!!」
 悲鳴を上げる間もなく獣人は鋭くとがった爪で頭に殴りかかってきた。何とか身を引いてかわそうとするも、反応が遅く爪が右側頭部をかすった。かすっただけでも卒倒しそうなほどの衝撃だった。
 軽い脳震盪を起こしたところで腕を掴まれ後方に放り投げられる。異常に気づきこちらの名を呼んだパンプルムーゼの声が途切れた。ファルシオンは屋上から投げ飛ばされ地面へと落下していった。
 地面に激突する寸前、身をよじってファルシオンは路地を埋め尽くすかのように伸びた枝に手を伸ばした。掴んだ太めの枝が折れてまた落下するが勢いはだいぶ殺がれている。
 無事に、とまではいかないものの何とか両足で着地して前につんのめりながらもファルシオンはすぐさま上空を見上げた。が、視界が濁っている。
 右目周りを手でこするとぬるりとした感触があった。遅れて感じた痛みに目を細める。かなり出血していた。
 建物の屋上から獣の唸り声とパンプルムーゼの持つ魔剣の音が聞こえてくる。恐らくあの獣人が強い力を持つ肉食系獣人だろう、一人でこの場所に転移してきた。
 治癒魔術を使っている暇は無い。傷が浅い事を確認して血を手で拭い、ファルシオンは文字を描いて地面を蹴った。重力が中和されて一気に屋上まで飛んで行く。
 手すりを乗り越え屋上に降り立ったのと剣を弾かれたパンプルムーゼが地面に転がるのは同時だった。幾度かバウンドしてから彼女はそのままバク転をして立ち上がった。
 彼女めがけて駆け出した獣人の足元に光熱波が突き刺さり、爆発する。パンプルムーゼがこちらを見た。
「ファルシオンくん!」
 獣人の男──よく見れば、昼過ぎに港に降り立った三人のうちの一人だった。狼の風貌を残す若い獣人の男。名は忘れたが、アースに食って掛かっていた男だ。
 彼は大きく後ろに飛び爆発を免れていた。後退して間合いを取る。
 太陽が沈み瑠璃色から藍色へと変わっていく暗い空の中、爛々と輝く瞳をこちらに向け彼は怒りに満ちた声で唸る。
「──、──……!!」
 何かを話しかけてくるが言葉が理解できない。一瞬彼は不可解な表情を浮かべるが、すぐに言い直した。
「……こちら側の住人か、貴様……?ケルヌンノスの者じゃあないのか」
「そうだ。この街の住人じゃあないけどな」
 ファルシオンの言葉に彼は牙をむき出して言い返す。
「馬鹿な……こちら側の住人だと!?人間種族しかいないはずだ……」
 彼はこちらを指差して言った。
「それに、その姿はまるで──シオンの悪魔じゃあないか!」
 獣人の男が叫ぶ中パンプルムーゼが剣を振った。分解した刀身が予測できない動きで標的を襲う。そして彼の足を撫で斬ろうと砂が収束した瞬間、男はその刀身を素手で掴み取った。手の甲に輝く文字が見える。彼は手に文字魔術を刻んでいた。
 パンプルムーゼが驚きの声を上げる。
 彼女に憎悪の眼差しを向け、男は握っていた刀身を握り潰した。砂へと戻った刀身がパンプルムーゼの持つ柄の元へと戻っていく。
 掌から血が滴り落ちている事を気にもせず彼は拳を握った。
「フェンリスの犬め……!ここで殺してやる!」