海獣ウンセギラ

 海上交通局の建物の中、待合室のソファーの上でファルシオンは飛び起きた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
 向かい側にいたパンプルムーゼと彼女に治癒術をかけていたティフィンが一瞬呆気に取られてこちらを見ていたが、すぐに笑い出した。
「……まだ奴らに何の動きも無い。大丈夫さ」
「もう少し休んでいたらいいんじゃない〜?」
「あ、ああ……今は何時だ?」
 寝ぼけながらそう口にして彼は苦笑した。自分がつけている腕時計を見ればいい──時計の針は九時を少し過ぎたところを指していた。ソファーの傍らには青薔薇の剣が置かれてあり、いつ鞘に戻したのか覚えが無い。
 治療し終えた頭をさすってからファルシオンはパンプルムーゼに視線を向ける。彼女もソファーの上に寝転がりながらティフィンの治癒術を受けていた。怪我をした腹部の出血は止まっていたものの、まだ傷口は完全にふさがっていない。
「……まだかかりそうなのか?」
「結構重傷だったんだよ。内臓まで傷ついてたから」
 そう言ってティフィンは口を尖らせる。
「こんな怪我で動き回って……無茶をするよ。こんなとこで君が死んじゃったら、子供たちはどうなるんだよ〜」
「ふん、これしきのことで死んでたまるか」
 ティフィンの苦言にパンプルムーゼはそっぽを向いて言い返した。それを見てティフィンはため息をつく。
「強がり言って〜。そんなんだから旦那に逃げられちゃ」
「それ以上言ったらねじり切る」
 思い切りすねを蹴られティフィンが飛び上がった。ひぃひぃ言いながら彼は床をのた打ち回る。
 彼女たちの掛け合いを見て少しばかり安心したところでファルシオンは立ち上がる。
「皆はどこに?」
「ベヘモト様なら外で見たよ〜。他の方々も一緒じゃないかな〜?」
 待合室から出て少し歩くと光が見えた。エントランスの中で火がたかれている。
「あ、ファルシオン」
 火の傍にはアリアとルージュが腰掛けていた。アリアはいつもはファルシオンが着ているコートを羽織り、ルージュも何処から持ってきたのか大きめの毛布を肩にかけていた。外の雨はようやく止みはしたものの、酷く肌寒い。
「大丈夫?すごく疲れてるみたいだったから……」
「使いづらい変な剣を借りてね。なれない事はするもんじゃないな」
 心配そうに声をかけてくるルージュに軽い口調で応えてからその横に立つ。
「君も大丈夫だった?獣人たちは手ごわかっただろう……レンジが負傷したって聞いたけど」
「私は大丈夫よ、レンジくんが守ってくれたから……自警軍の人たちも怪我をしたみたいだけど皆命に別状はないのだって」
「アリアの方はアースと一緒にかけ回ってたからだいじょうぶー」
 彼女たちと喋っている間に港から人影がこちらに向かって近づいてきた。恋路だ。彼はいつも足音を立てずに歩く。
「起きたのか」
 喋り辛そうに口を開く。彼の顔には大きな絆創膏が張ってあった。
「あの黒い船は?」
「この一時間、硬直状態だ。あいつ…アースが何度か撤退するように呼びかけていたが反応も無し。ただ、時折魔力の流れが見えた」
「……何か、術を練っているとか?」
 肩をすくめて恋路は焚き火の傍らに腰掛けた。彼の顔には疲れが出ている。
 と、脳内にティフィンの声が響いた。パンプルムーゼの治療が終わったらしい。
 しばらくしてティフィンがとたとたと頼りない足音を立てて姿を現した。彼は港へと視線を向けて呟く。
「まだ動きは無いみたいですね〜。」
「何か術を仕掛けている様子らしい。あんた、それが何の術なのかわかるか?」
「う〜ん。もう少し近づいてみないとわからないかな〜?」
 そう言いながらティフィンは海岸へと向かった。ファルシオンも彼について行く。
 港の周囲には濃い霧が出ていた。ティフィンが文字を描いて灯りを造りだし頭上に掲げる。
「そういえば。ムースに聞いたけど、君、転移魔術成功させたんだってね〜」
 唐突にティフィンがこちらを見て言った。苦笑する。
「成功……って言えるレベルかな、あれは。かなり体に負担が掛かったけれど」
「独学で成功させるなんてすごいね〜。君、術理論を勉強すればきっとすごい術士になれるよ」
「術理論?」
 ほぼ独学で術を使っていたので理論がある事を知らなかった。魔術が社会に浸透しているのであればそれは当然の事なのだろうが。
 ファルシオンの疑問にティフィンは説明しだす。
「昔はもっと単純な理論しかなかったんだけど、世界崩壊後に魔術、特に幻想人種族由来の黒魔術を使える人が増えてからは研究が盛んになってね〜。
 君は今、文字魔術の文字を単発的に使っているだろう?」
 頷くとティフィンは指を虚空に滑らせた。文字を幾つも描き、文字と文字の間に見たことの無い文字を挟んで一文を描く。先程あの狼型の獣人も見せた技だ。
「今では研究が進み、文字を幾つも組み合わせて効果を重合させる事ができるようになったんだ。この文字は相対する文字を繋ぎ合わせる接合文字。接合文字の発見が研究の要だったんだって」
 描いた文字の一文を指で弾き霧散させてティフィンは肩をすくめた。
「紋章魔術も……あ、リゲルの使っていた魔術の事だよ〜、紋章を媒体にする魔術。あれも発展して立体紋章を描けるようになったからね〜。そのぶん発動までに時間がかかるようになったけど……」
「……むこう側では魔術は当たり前の存在なんだな」
 思わず呟いてしまう。その言葉を聞いてティフィンが垂れ下がった耳を上げ、一瞬きょとんとした表情を浮かべるが、すぐに苦笑した。
「そうだね……君より魔力が弱い人はたくさんいる。でも君より強い人もたくさんいるよ」
 ファルシオンは自分の手を見つめた。自分だけに備わった特別な力だと錯覚しがちな力。
「なんか安心したよ。そうだよな……何も特別な力じゃあないんだよな」 
 波止場に辿り着いた。
 濃い霧に包まれ黒い海に浮かぶ黒い船の姿ははっきりとは見えないが、時折船の周りで放電のような火花が散っていた。 
 不思議な形の双眼鏡(パンプルムーゼも同型の物を持っていたので支給品なのだろう、)で黒船を観察してティフィンが呟いた。
「あれは……降臨魔術……だと思う」
 細い目をさらに細めながら彼が続ける。
「幻想人種族の黒魔術の一つで……精霊や幻獣を召喚する魔術だよ。……あの光の色は水精系だね。トリトンの眷属を呼び出すつもりだ。リゲルの紋章術も見える、降臨術の補助をしているんだろう。そんな大掛かりな術なんて……」
 いつしか空は晴れてきていた。真っ黒な雲は流されて千切れて行き、銀色の月明かりが海に反射している。その中でドオォン、ドォンという重い音が響いた。攻撃の音かと身構えるが、その後何も起こらない。ただ地鳴りのような音は響き続けていた。
 湿気を含んだ冷たい風が吹き身震いする。心なしか気温が一気に下がったような気がした。
 そして黒い船の前に突如として現れた巨大な影を見てファルシオンは呻いた。
「……なんだ、あれ……?」
 先ほどから鳴動していた音が、その巨大な影が発生させた津波の轟音だと気づいた頃には壁のような津波は目の前まで来ていた。
 術を使う間もなく波に飲み込まれファルシオンの体は呆気なく流される。
 もみくちゃにされ上下もわからず波に押しつぶされてもがく──硬い何かに体を打ち付けられた。強烈な波の衝撃で息を吐くことすらできない。押しつぶされながらファルシオンは無我夢中で手に触れた棒にしがみついた。
 押し寄せた波がやがて一気に逆流し、引いていく。押しつぶされるよりも強い力で引かれてファルシオンは棒を握る手に力を込めた。次第に引く力が弱まり体が地面へと落ちていく。
 水が引いた後に目を開けて周りを伺う──掴んでいた棒は倉庫の側面についていた金属製の階段の柱だった。港から倉庫街まで一気に押し流されてしまったようだ。
「……!? ティフィン!」
 同じく流されてしまっただろう獣人の青年を探す。  
「た、たふけて〜」
 すぐ近くから助けを求めるか細い声が聞こえてきた。  
 ティフィンは倉庫の壁と重機の間に足だけはみ出させて挟まっていた。逆さまにはまってしまったようで、自力では出られないらしい。近寄ってその足を引っ張った。
 壁と重機の間から引き抜かれティフィンは持っていたハンカチで鼻をかむ。
「転移すればよかっただろうに」
 呆れ顔で彼に言い掛ける。ティフィンはハンカチを畳み直し懐に入れた。そして海の方向を見て、
「あまりにも突然だったから〜……って、うわぁ!」
 どうにも一呼吸遅い驚きの声を上げる。彼の視線の先には巨大な影があった。
「海原竜<ウンセギラ>!あんなものを召還していたのか。上位の水棲生物だ」
 影の周りで火花が散った。光に照らされその姿を垣間見る。
 黒光りする鱗に覆われた巨大な蛇が黒い船の前で長い首をもたげていた。目だけが火を灯したように輝いている。
 その姿を確認してファルシオンはため息をついた。
「また蛇か……」
 海原竜は大きく口を開き威嚇音を発した。耳をつんざくような甲高く鋭い音にファルシオンたちは耳を押さえる。
 だがその音を真っ向からかき消す獣の鳴き声が響く。
 いつの間にか彼らがいた倉庫の上にアースが立っていた。彼は人の姿に戻っていた。
「アース!」
「めんどい奴を呼びやがったな……」
 そう呟きながら彼は地面に着地した。
「相手は海の上か。残念だが俺は手を出せそうにない」
 アースの言葉にファルシオンは聞き返す。
「何だって?」
「俺は大地の上以外じゃあ無能なんだよ。いくら力があったとしても爪が届かなければ意味はない」
「無能って……」
 冗談かと思うような話しぶりだったが、彼の言葉を聞いてティフィンが問いかけた。
「……原初の野獣があんな相手にてこずるわけがないでしょう?」
「そうも言ってられん。俺たちも万能じゃない……水相手じゃ相性も悪い」
 ティフィンが目を細める。その表情が珍しく真面目なものだったので、ファルシオンは少し驚いて押し黙った。
「……貴方の力が弱まっているのでは?」
 アースが苦笑する。
「そりゃあ、むこうの奴らは……強大な力を持っているだろうさ。特にフェンリスはな」
「そこまでして貴方は……どうしてです?」
「あんたの相棒にも聞かれたよ。仕方がない、人になるってのはそういう事だ」 
「肉体を得た代償ですか。高い代償に値する何を手に入れたと?」
 それ以上の事を喋る気はないという事だろう、背を向けアースは肩をすくめた。
 しばらく彼を無感情な目で見つめ──パンプルムーゼは憤りを含んだ眼差しで彼を見ていた事をふと思い出した──ティフィンは何を思ったのだろうか。表情からは読み取れない。
 追求する事は諦め、彼は視線をそらした。
「僕は大総主の言葉全てを信じているわけではありません。……何事も自分の目で確かめないと気が済まない性質なので」
 アースは背を向けたまま頷いた。
「その目で見て判断するといい。俺たちの口から言える事はとても少ない」
 海原竜が威嚇音を発すると、その周りに幾つもの水泡が上がった。その水泡が竜の一声と同時に高速でこちらに弾き出された。咄嗟に建物の影に隠れる。
 水泡はレンガの壁を簡単に打ち抜き、近くにあった重機に無数の小さな穴を開けた。
 地面に手をそたアースが土を盛り上がらせ壁を作り出した。それを幾つも作り出す。
 ファルシオンは壁の間を転がるように移動し、水の銃弾が止むタイミングを掴んで文字を描く。ティフィンも転移を繰り返しながら竜に向けて文字を描いた。同時に文字が輝き出す。
 稲妻の槍と炎の波が交差しながら竜に突き進む──が、竜の前に浮かび上がった巨大な紋章が二人の魔術を弾いた。ティフィンが呻く。
「リゲルの術だ!」
 再び水の銃弾が降り注ぎ二人は土壁の中に身を隠した。
「ここからの距離だとどうしようもないですね〜」
「ジリ貧だな……」
 頭の上すれすれを水の弾が行き交いファルシオンは首をすくませた。
「術士を何とかしないと、竜に攻撃すら当たらない」
 と、水の弾幕が止んだ。
 土壁から顔を出して様子を伺ったところで目を見張る。
 頭を上げて鳴く竜の周りに淡く輝く霧が現れていた。よく見れば霧は青い光を放つ虫のようなものが集まって光っている。
 ティフィンが言った。
「水精を呼び集めてる……あっ!」
 竜の背後に巨大な波が生まれた。竜がこちらに向かって吠え、先ほどよりも大きな津波が一気に港に押し寄せる。波の高さを見てファルシオンは街へと視線を向けた。
「まずいぞ、あれじゃあ街まで飲み込まれる!」
「僕が行きます!」
 そう叫んでティフィンの姿が消えた。アリアたちの下へ転移したのだろう。
 残されたファルシオンはアースの元へと駆け寄り、文字を描き結界を張った。二人を包む結界の中でアースは腕を上げて何かを言う。だが、彼の力でせり上がった土は波に砕かれあっけなく崩れた。
 津波が結界に覆い被さり大きく大地が揺れた。周囲に存在していたものが波の力に押し倒され、流され、根こそぎえぐられていく。
 そんな中で腕を下ろしアースがため息混じりに呟いた。
「……こうも無力化されるとは、凹んじまうな」
 結界が薄くなっていた。突き出していた手に力を込めるが、どうやら残された力はそう無いらしい。
「結界が……消える!」
 水が結界に開いた穴から勢い良く降り注ぎ始めた。
「あー、俺泳げねぇんだよ」
 妙に落ち着いた声だけを残してアースが水に飲み込まれ、その後すぐにファルシオンも波に飲み込まれた。
 自身で口にした言葉通り、アースはあっけなく水に飲まれてしまった。
 水の中に沈んで行く彼の姿を発見して必死に手を伸ばす。彼の腕を掴んだ瞬間、意識はあったのだろう、アースがその手を強く掴み返してきた。
 自分よりも体重のある彼を抱えるようにして上を目指す。だが暗闇の中、しかも濁流に飲まれ方向感覚はすでに狂ってしまい水面に出ることができない。息も限界に近づいていた。
 一か八か、転移魔術を試そうとファルシオンは文字を描こうと指を伸ばした──が、体の中が焼けるような感覚を感じて咄嗟に術を強制遮断する。このまま実行すれば制御に失敗するのがわかった。
 耐え切れずに息を吐き出しながら、薄くなっていく意識の中で苦笑する。
(ティフィンにコツでも教えてもらえばよかったな……)
 そのティフィンの声が頭の中で弾けた。
《ファルシオンくん、今から転移するよ!》
 その声で意識を戻したときには彼らの体は光に包まれた。落下するような、上昇するような何ともいえない感覚が押し寄せる。
 気づくと自分の体の下に堅い大地があった。その感触に感謝しながら目を開ける。
「間に合ってよかった〜」
 すぐ傍にティフィンがいた。彼は虚空に描いていた文字を霧散させると安堵の息をつく。
「大丈夫、皆ここにいるよ」
 起き上がり辺りを見回す。自分たちの周りには不安そうな眼差しの大勢の人々が取り巻いていた。横には咳き込んで水を吐いているアースとその背中をさすっているアリアの姿が見える。ルージュと恋路もいた。建物の中のようだ。
「ここは……砦跡?」
「丘の上だからここが今のところ一番安全かと判断してね。……思ったよりも波の威力が強かった」
 立ち上がりすぐ近くの窓から港を見ると、港区は完全に水没していた。海抜が低い街の一部も水に沈んでしまっている。大地を揺るがす轟音が足元で続いていた。
 隣でその惨状を見下ろしていたティフィンが呟く。
「ここまでやるとはね〜……降臨魔術を使っているのはラビ・スピカだね。彼女も元軍人で指名手配されていているんだ」
「個人の力であれほど強力な存在を呼び出せるのか?」
「リゲルの魔力を重ねてるんだ。竜を自動的に守護する術以外の力を全部降臨魔術の補助に回しているからね〜」
 竜は力を溜めるように頭を垂れて身動き一つしていない。その周りを淡い水色の光が包み、光のカーテンのように広がっていた。それを見てティフィンは唇を噛む。
「……更に大きな力を集めている。街全体を押し流す津波を引き起こす気だ」
「防ぐ手立ては?」
「竜を倒すかラビ・スピカの術を解くしか方法は無いね〜」
 探るように意識を集中させていたティフィンはふとあごに手を当てた。
「……あ、でも……この後行ける、かも……?」
 そして振り返りこちらの肩を掴む。
「ファルシオンくん。今から君をあの船の上に転移させる」
 ファルシオンたちは部屋の一角に集まった。先程まで姿を見せていなかったパンプルムーゼも集まる。横に並んだ彼女に声をかける。
「怪我は大丈夫?」
「動けないわけでもない。今は寝ている場合じゃあないだろう」
 彼女はそう応えニッと笑った。
 皆を集めたティフィンが口を開く。
「リゲルの感覚域は今では降臨魔術補助の為に多くの力を割いて狭まっています……特に海原竜が津波を引き起こした直後に隙が出来るはずです。その隙をついてファルシオンくんをあの船に送り込みます〜。彼に海原竜の動きを止めてもらう」
「津波の後って……」
 思わず声を上げた。
「この街はどうなる?津波を防ぐんじゃあないのか?」
「津波を防ぐのは君の役目じゃあないよ」
 ティフィンはそう言って自分の相棒に視線を移した。
「ムース、緑魔術使えるよね〜?とびきり広範囲のやつ」
「人使いが荒いな、病み上がりだぞ」
 腕組して立っていたパンプルムーゼは嘆息する。
「さっきこれしきの傷〜とか言ってたじゃない」
「はいはい」
 観念したようにパンプルムーゼが頷いたところで彼はもう一人、ようやく呼吸を落ち着かせたアースに声をかけた。
「ベヘモト様。貴方にも助力をお願いします」
「どうする気だ?」
「貴方の力とパンプルムーゼの力で津波を相殺します」
 アースの問いに、いつもの表情のわかりにくい軽薄な眼差しに強いものを秘めてティフィンは地面を指差した。
「大地の力を思い知らせるんです」