8.



オオトリが鋭い声で鳴くと、その周りに光る球体が無数に生まれた。
そのまま光球はクチナワに向かって進み、その体に触れた瞬間目が眩むような光を放って炸裂する。触れた部分は削ぎ落とされたかのように何もなくなっていたが、辺りに漂っていた瘴気がその傷の場所に集まり傷を再生していった。
クチナワの大きく開かれた口から黒い液体が放たれた。すんでの所でオオトリはその液体をかわすが、地に落ちた液体は触れたもの全てを腐らせた。
その間にファルシオンが文字を描ききる。
「エンテ!」
先に放たれ地面に残っていた文字の跡がふたたび反応した。クチナワを取り囲むように文字は残されている。文字跡は円を描き輝きだした。そして実行の言葉と共にその中心にいるクチナワの体が地面に押し潰される。すでに肉体を取り戻していたクチナワの体は強力な重力によって軋み音を上げる。大地に亀裂が入り、円状に陥没ができた。
文字が消えた頃にはクチナワの体は原型を残していなかった。
どうだ、と肩で息をしながら様子を見る。
だが、それも束の間に枯れ腐り果てた木々や土を取り込み寸断された骨や肉を再生してクチナワは甦る。
「今のが効かないなんて・・・」
大技を物ともしないその姿にファルシオンは改めて畏怖の念を感じた。まず普段使用する事のない、自分が知っている限りの大技だったが、無意味なようだ。
「なんて再生力だ・・・なぁオオトリさま、あんたどうやって奴を倒したんだ?」
手の打ちようがなくなりオオトリに訊ねる。
以前はあれを呼び出した者たちがいた 式神使いという者たちだ
500年前の時にはクチナワは奈落から呼ばれた式神という存在だった それを操る集団 式神使いたちを倒す事でクチナワの力は弱体化し 俺が止めをさして再び奈落へと消えていった

オオトリが苦々しく言う。
「式神・・・今の奴は誰にも操られていないんだろう?」
奴は召還されるわけでもなく怨みや恐れを取り込んでこの地に現出している そしてすでに肉体は復活してしまった
「今回は前のようにはいかないって事か・・・」
僅かだが勝機はある 光があれば の話だが
オオトリが目を細める。ファルシオンは辺りを見渡し、吐息を漏らす。
「光っていったって・・・・・・ああ、そうか」
日の出か、と東の空を見る。だが日が昇るにはまだ遠い。
どちらにしろそれまであのクチナワを足止めしなければならない。クチナワの瘴気に晒されて桜の木が少しずつ弱っていっているのがわかった。
ファルシオンは焦りを覚える。アリアが奈落に落ちたままだった。なんとかして捜しに行きたいが、クチナワはかなり殺気立っており迂闊に近づく事すらできない。
先程オオトリに飛び乗らず、そのまま奈落に飛び込んでいればよかったと少し後悔した。
何とか手を考えるが、どれも確実ではない。ファルシオンが無言で頭を悩ませていると。
――奈落にクチナワの本体がいる
オオトリが思い出したかのように唐突に声を上げる。
「本体?」
500年前に奴を倒した際 復活することがないよう奴を奈落に封印をしている その封印が完全に消えていなければ本体はまだそこに縛られているはずだ 
「でも、もう奴は完全にこっち側に現出してるんじゃないのか?」
いや 先程の再生能力や異常な程の力の在り処を見るとまだ奴の本体は奈落にいる 今俺たちが見ているのは奴の殻のようなものだ
本体は奈落と繋がってそこから力を引き出しているのだ

その話を聞いて、どちらにしろ奈落へ行かなければとファルシオンは覚悟を決める。
「・・・気をつける事は?」
そうだな 
オオトリは考える。
・・・目をしっかりと見開け それくらいだな 
ファルシオンは深呼吸をして胸で十字を切った。
「俺、視力悪いんだけどね」
オオトリは大きく羽ばたき、クチナワに向かって急降下する。クチナワが反応し、その体を大きく伸ばした。
今だ 行け 
オオトリが叫ぶ。
ファルシオンはオオトリの背中から飛び降りた。落ちていく間、クチナワの不気味な鱗が手を伸ばせば届くところにある。
クチナワが体の向きを変えるよりも早く、ファルシオンは奈落へと飛び込んだ。地上と奈落の境界線、彼は異質な地平線を見る。
奈落は暗く深かった。
すぐ横に銀色をしたクチナワの体躯があった。遥か底から地上にまで伸びている。
これを辿ったところにクチナワの本体が居る。オオトリの言う封印もそこにあるはずだ。
落ちていくような、潜っていくような不思議な感覚を味わいながらファルシオンはクチナワの体を辿る。
そして同時に注意深く辺りを見渡していく。暗闇の中にたくさんの何かが息を潜めている気配は感じるが、暗くて何も見えない。それでもファルシオンはオオトリに言われたようによく目を凝らす。
すると少し離れたところに蜘蛛の糸のように細い線が見えた。ぼんやりと光るその糸は萌えるような黄緑色をしている。
その糸も遥か底へと続いていた。
底は、まだ見えない。
底へと沈むにつれて目が慣れてきたのか、次第に辺りに潜むものの姿が見えてきた。深海魚のように漂う彼らは名もない悪霊だった。彼らはファルシオンとは逆に上へと向かっていた。
途中で先程地獄の使者に引きずり込まれたカシマの姿を見た。彼女は体のところどころが腐り落ちるかのように霧散しつつあったが、まだ無事な右目でファルシオンを見つけ中指を立てていた。
更にファルシオンは潜る。潜るにつれ、圧迫感のようなものを感じていた。
アリアはどこまで沈んでいるのだろう――彼女の糸はまだ底へと続いている。
と、唐突に嵐の真っ只中のような荒れた流れがファルシオンを襲った。沈むにつれて流れは荒々しくなり、流されそうになりながらもその嵐の先に向かう。
目も開けられないほど強い流れの中、ファルシオンは進む先に大きな“符”があるのを見つけた。
おそらくあれが封印だろう。ファルシオンはもがきながら嵐を抜け、なんとか符の前に立つ。
見慣れない独特な文字で描かれた符だった。だがその符は横一文字に裂けていて、その前に灯っていたはずの蝋燭の火は消えている。
符の亀裂から禍々しいクチナワの体が現れていた。
何とかして封印を修復しなければならない。ファルシオンは符に手をかざす。
――な――であ なた――にいるの?
唐突に聴き慣れない女の子の声が聞こえた。一瞬アリアだろうかと思い辺りを見渡すが彼女どころか人影すらない。
――は塩子って――のよ あなたは?
また聞こえてきた。空耳ではない。消えていた蝋燭に淡い火が灯った。
綺麗な羽を持っているのね 素敵
そこからは何が見えるの? 教えてよ
空を飛ぶのって気持ちがいいでしょうね 私も空を飛んでみたいな

蝋燭の灯火に反応するように、声が次々と響きだした。
私の病気が治ったら海を見に連れて行ってね
今日も調子がいいの 最近元気が出てきたわ もうちょっとで治るかなぁ
友達がね 都に行くんだって 見送りに行きたかったわ
ねぇ どうして私にしかあなたは見えないの? 
ねぇ あなたに触れてみたい お願い 

耳を澄ましていたファルシオンは気づいた。これは――
おまえに触れにきた
――ありがとう 恋路 
――これは、オオトリさまの記憶?
いつの間にか辺りに蛍の光のような小さな光がいくつも浮かんでいる事に気がつく。それにそっと手を伸ばすと、脳の中にはじけるように映像が映し出された。
広い世界、どこまでも続く海――彼の体は空を飛んでいるようだった。視界はオオトリの目線だ。
まるで映画のシーンのように、場面が次々に急転換する。
見たことの無い広い大陸、今よりもずっと古い街、祈る人々、クチナワとの戦い、終わる戦、桜が咲く山、幾編も変わる町並み、変わらない桜の木、山の上に住む一家、部屋にこもって寝ている少女、少女の部屋、桜の花、白黒の少女の遺影――。
少女の声が響く。桜が散ったら、会いましょう。
そうか、だから・・・ファルシオンは光から手を離した。
彼は恐れている。桜が散れば、塩子との記憶が、思い出が消える事を恐れている。
「――レンジはね、シオコの言葉のいみに気づいていないんだよ」
ファルシオンは顔を上げる。いつの間にかアリアが横にいた。いや、きっと彼女はずっとそこにいたのだ。
彼女は独り言のように続ける。
「シオコはちゃんと約束したんだよ、会いに行くって でもレンジはそのことに気づいていない。 
気づいていないからシオコに会えなかった。シオコのことを忘れていって、そのことにまたこわくなって、桜の入り口を開けて、シオコの言葉のいみに気づかずにずっと待ってて――
アリアはこの街についたときから、シオコの呼び声がきこえていたんだよ。
あの桜からきこえていたのは、シオコがレンジを呼ぶ声だったんだ」
アリアが蝋燭に手をかざし、ふっと息を吹きかけると蝋燭の火は大きく燃え上がり辺りに光が満ちる――ファルシオンも符に手を伸ばし、文字を描き込む。文字の意味は再生だ。
符の亀裂がみるみるふさがっていき、完全に元の状態に戻った時、クチナワの体が消えていく。
「――行こう。オオト・・・レンジがまだ戦ってる」
ファルシオンの言葉に、アリアは頷いた。
二人は天上を目指す。
先程の嵐は止んでいた。二人は深海から空を目指すように上へ上へと上っていく。
と、底のほうで何かの気配がして、アリアは振り向いた。
振り向いた瞬間アリアの体が一瞬にして底へと引きずり落とされる。
声を上げる間もなくファルシオンと離れ、彼はアリアが落ちていく事に気づかずに背中を見せたまま遠くに消えた。
気づいたときには先程の封印の場所よりも更に深く濃い場所にまで落ちていた。
音も光も風も何もない、暗闇だけが広がる空間。
奈落の底だった。
どこを見渡しても何も見えずにアリアは歩き出す。果たして歩いて進めているのかすらわからなかったが、アリアは歩き続けた。
どうやって戻ればいいか、その気持ちが恐怖心よりも強かった。時間感覚もすでに無く歩き出してどれだけの時が経ったのかもわからずにいたが。
不意に視線のようなものを感じた。辺りを見渡す。だが何も無い。それでもアリアはじっと、暗闇を見据えた。そこに何かがいる、そう確信した。
形も何も見えないが何かがいる。息を潜めてそこにいる。彼女を見つめている。
そして瞬きをした瞬間、その目に映っていた風景が一変していた。
呪詛めいた文字が至る所に描き満たされている部屋の外にアリアは立っていた。その部屋の扉は開いていて、アリアはその中を覗き見る格好で立っていた。
その文字はファルシオンの操る魔術の文字に似ているようだったが、アリアには読み解く事はできない。文字は生きているかのように動き回り、ぶつかり合い、絡まって解けて部屋の中を流れていく。
よく見るとその部屋には文字だけではなくありとあらゆる表現方法が詰まっていた。色もある。声もある。
紋章のような模様もあり、匂いもあり、動きもあり、形もあった。
その表現たちは全て、部屋の中にいるものを封印する為のものだとアリアは理解した。
そこまでして封印したいもの。
アリアは部屋の中に入る。
色の違う、二つの目が彼女をしっかりと捉えていた。冷たいその目に見つめられているだけで胸が圧迫される。
自分の鼓動の拍子をしっかりと支えながら、アリアはその何かに手を伸ばす。
何かも手を伸ばす気配がした。――手?人の形をしている?人?
その手は黒く細かった。お互いの手が触れようとした、瞬間――
触れてはいけないよ
突然横から手をつかまれる。
君も呪われてしまう
声の主が男、という事はわかった。
ぼんやりとした影だけがそこにあったが、声ははっきりと聞こえている。影は彼女の手を優しく拒むと上を示した。
さぁ行くんだ お迎えが来たよ
影はそのまま奥の何かのほうへと去ってしまう。その後を追おうとしたとき、聞き慣れた声が聞こえた。腕を強く引かれる。
「アリア!」
一瞬にして再び景色が変わり思わず目を閉じる。
再び目を開けたときには、アリアは地上にいた。
「――アリア!」
腕を強くつかまれている。ゆっくりと頭を上げると、面前には安堵の表情を浮かべるファルシオンがいた。その横にはルージュもいる。
意味がわからずにきょとんとしていると、ファルシオンが彼女の頬をなでながら苦笑した。
「あそこで振り向くなって事をうっかり言うの忘れてたよ。引きずり落とされて、戻って来れなくなるんだ。途中でアリアがいなくなって驚いた」
「・・・・・・・・・うん」
「大丈夫か?ここはもう現世だよ」
「・・・・・・・・・だいじょうぶ」
「ここで休んでるといい。僕はオオトリさまに加勢してくる」
「・・・・・・・・・うん」
頭がぼおっとしている。ひどい頭痛がしてきた。
脇に置いてあったアリアの帽子をその彼女の頭にのせると、ファルシオンは行ってしまった。
残されたルージュが心配そうに彼女の顔を覗き込む。
「大丈夫、アリア?」
「・・・・・・・・・うん」
少し呻いてアリアは額を両手で押さえる。深呼吸すると多少頭痛が収まった。
(・・・にてた)
目を閉じてもう一度よく思い出す。ファルシオンに奈落から引きずり出された瞬間に、わずかに見えたのは部屋に潜む何かの姿。
(にてた・・・ファルシオンに・・・)
混乱するアリアの意識の中ではっきりと浮かぶその姿がとても不吉なものに思えた。

幾分か月の光が弱くなってきたように見えた。
時計を見ると夜明けまではもうすぐだった。夜が明ければ、オオトリは力を取り戻すはずだ。
ファルシオンが見る限りではクチナワは確実に弱っていた。
再生能力は失われたようで、その巨躯はところどころ腐敗が始まっている。元である依り代が朽ち落ちた枯れ木や汚泥だったのならば、体を維持できなくなっているという事だろう。
クチナワの腹の部分がずるりと爛れ落ち、骨がその間から覗いた。
このままいけば、勝てるか――そうも思ったが、その考えは甘かった。
彼の頭上のすぐ上ををオオトリが飛び過ぎる。
オオトリも疲弊が激しく、最早まとわりつく亡者たちを振り払う事すらできなかった。光り輝いていた彼の体から、光る羽が抜け落ちて霧散していく。
亡者たちに引き寄せられ彼はついに地上へと墜落する。
地震のように大地が揺れた。
地面に叩きつけられたオオトリは何度か起き上がろうと首をもたげるが、羽を広げる事もできずにそのうち動かなくなってしまう。
それを見てクチナワはくるりと体の向きを変え、頂上に咲く桜の木へと突き進んだ。そのまま、桜の木との邂逅を迎える――
だがその目の前に無数の文字が浮かび上がり、盾となってクチナワを弾いた。
盾は広がり、結界となる。
「オオトリさま!早く起きるんだ!」
桜の木を背に、今にも破られそうな結界を必死に抑えながらファルシオンが叫ぶ。
「そんなに、俺はもたない――!!」
徐々に彼の紫色の髪が白くなっていく。力が尽きてきた証だったが、それでも片膝をつきながら腕を伸ばした。
ファルシオンの影から黒い腕が無数に伸び、結界を支える――結界はクチナワをはじき続けその頭の肉がこそげ落ちていくが、力は弱まらない。
結界を支える黒い腕が一本、二本と崩れていく。同時に結界を作る文字が次々と光を失い消えていく。
クチナワの顔はかざす手のすぐ前まで迫っていた。骸になったその眼窩には未だ赤い光が爛々と灯っている。
限界か――ファルシオンは残る最後のひと文字にありったけの力を込めた、その時。
彼の目に小さな花びらが映り思わずそれを目で追ってしまう。花びら?
振り向く。

桜が散っていた。

無数の花びらが、一気に空に舞い上がる。
夜明け前の、淡い桃色に染まる空に溶けるかのように、花びらが舞う。
あまりの美しさにファルシオンは見とれてしまった。
「サクラの花が・・・」
花びらはオオトリの元へも散っていった。
オオトリは顔をもたげ、目を開く。桜の花びらが彼を撫で去っていく。
オオトリ――恋路の中で、様々な思い出が甦っていく。
今はっきりと思い出した、塩子が言ったあの言葉。
桜が散ったら 会いましょう。
恋路は最後の力を振り絞り、大きく羽を広げ、ありったけの声で叫んだ。
その鳴き声は街を越え山をも越え、響き渡る。
朝を告げるその声は――


* * * *


それまで静かに眠っていた静子は響き渡るその声で目が覚めた。
時計を見る。まだ日は出てないわね、それにしては外が眩しい――ショールを身にまとい立ち上がって襖を開け、窓の外を見る。
静子はその光景に思わず立ち尽くした。
「――ああ、アマカケルオオトリ様――」
震える喉でその神の名を呼ぶ。
いつも見つめていたあの山から、光り輝くオオトリが飛び立つのを見た。
舞い散る桜の花びらを身にまとい、大空に飛び立ったオオトリは再び鳴き声を上げ、地上にいるクチナワめがけて急降下する――クチナワが最期の抵抗を見せたが、オオトリは足でしっかりとクチナワを捕らえ大きく羽ばたいた。
そして一気に空へと上昇する。色とりどりの美しく輝く尾をなびかせ、オオトリは空高く昇っていく。
暴れるクチナワの体が次第に塵となっていく。それと同時にオオトリの体も燃え尽きる前のように、強くまばゆい光を放ちながら消えていく。
そして長い夜に朝日が昇った。山の瀬が一瞬黄金色の枠で彩られ、次第に太陽が昇る。
朝日に包まれた瞬間にクチナワの体は完全に消滅した。
それを見届け、オオトリの体が消えながら落下する――その光り輝く羽は街中に舞い散った。
静子の元にも羽は舞い落ちてきた。
羽をその手に受け、静子は一人静かに泣く。
「――塩子、姉さん――・・・やっと彼に、会えたんですね・・・」



* * * *


「・・・! ファルシオン、あそこにいた!!」
駆け上がるアリアの後から、足元がおぼつかないファルシオンと彼に肩を貸すルージュが追う。
アリアが向かった先には桜の木があった。
朝日に照らされて桜の木は揺れながら絶え間なく花びらを散らし続ける。
日が昇った直後に亡者たちも消えた。いたるところに衝撃の跡が残ってはいるが、山は普段の景色へと戻っていた。
「ファルシオン君、大丈夫?」
「・・・・・・ん」
真っ白となった彼の髪を触りながらルージュが声をかける。ファルシオンは大丈夫、と手を上げようとしたがそれすらかなわなかったので僅かに口を動かし返事をした。
桜の木の前で立っているアリアの横に並ぶ。
アリアは口を一文字に閉じて横たわる彼を見ていた。
どうすればいいのか、わからないのか。
ファルシオンは彼女の背中を押して――とはいっても指が触れた程度だったが、かすれた声で言った。
「・・・・・・行っといで、アリア」
「・・・・・・うん」
彼は微動だに動かなかった。
片手で顔を隠し、桜の木の幹に横たわっている。
アリアは静かにその横に膝を抱えて座った。
彼は動かない。死んでいるかのように動かない。だがアリアには聞こえている、彼の鼓動は強く脈打っている。
その鼓動に耳を澄ましていると、かすかに彼の口から声が漏れた。
違う、声ではなかった。嗚咽だった。
アリアはその理由を尋ねる。
「・・・・・・なんで泣くの?」
「思い出したんだ」
恋路は顔を手で覆ったまま応える。だがその指の隙間から涙と鼻水が流れていた。
「思い出したんだ、やっと・・・塩子が言ってた事」
「シオコ、なんて言ってたの?」
「会おうって言ってくれていたんだ。でも俺馬鹿だから、その事を忘れていたんだ・・・」
桜の花びらと共に忘れていた色々な場面が溢れてきた。
その一つ一つの塩子に今、恋路は会う。
――お前はずっとここにいたのか。
恋路は手を桜の木へと伸ばした。ぐしゃぐしゃになった顔に花びらが落ちてきた。
それをぼやける目で見て、恋路は唇を噛んだ。だが涙は止まらない。
「やっと会えた・・・・・・ごめん、塩子」
恋路は泣いた。きっと、俺がこんなに泣くのはこれっきりだ。
そう思って桜の下で泣いた。