5.



「・・・・・あ、ファルシオンくん!」
山の入り口で待っていたルージュが手を振った。ファルシオンはそれに応えながら尋ねる。
「アリアは帰ってきた?」
「うん・・・・・でもすごい速さで行っちゃったわ。どうしたのかしら」
「・・・・・・・・・。」
ファルシオンは無言で街の方へと向かった。
「・・・・・なんか、大変な事になったね」
横を歩くルージュが呟いた。ファルシオンは少し苦笑する。
どうにもこうにも、自分は面倒事に巻き込まれる体質なんだなと彼は思った。アリアにしてもルージュにしても、自分にしても。
もう一度彼の残る山を見上げると、山の頂上に向かって進む白い大蛇が見えた。クチナワの神は街の半分ほど横切るような形で身を横たえらせていて、僅かにだが確実に山に近づいていた。
クチナワの神の赤い眼がこちらを見据える。気づかれている。
「・・・・・・おかしいなぁ」
同じ方向を見ていたルージュが目を瞬かせながら呟いた。
「今日は特に細長い霧みたいなものが見えるわ。何だろうね、あの霧。山に向かって登ってるみたい」
どうやら彼女にははっきりとは見えていないようだった。
まだ完全には現出していないか・・・・・ファルシオンは涼しげな眼差しでクチナワの神を見返すと、ルージュを連れて宿へと戻った。
宿には女将と女中たちが忙しく祭りの仕出しを作っていた。忙しそうだったのでそのまま部屋に上がろうとすると、女将が気づいてこちらに声をかけた。
「あの子がさっき帰ってきてたよ」
「ああ、どうも」
あまりに忙しそうだったので、ファルシオンはルージュに笑いかけた。
「ルージュも手伝ってあげたら?」
「うん、そう思ってた。手伝っていいかな」
女将に言うと、彼女はとても嬉しそうにルージュを手招きした。
「手伝ってくれるのかい!悪いねぇ、ならそこの煮物をかき回しててもらえるかね。お礼に美味しいお酒を出すからさ」
控えめにやる気のルージュに声援を送ると、ファルシオンはゆったりと廊下を歩いて行った。そして離れに続く縁側に座り込む。
縁側の外には、綺麗に整えられた庭園があった。夕暮れの中、熊笹の葉が涼しげに揺れる。
「・・・・・どうしたのかなー、アリアちゃん」
返事がなかったのでファルシオンは寂しそうに耳を垂らし、彼女の頭を撫でた。
「そんな哀しい顔しないでくれよ」
縁側に座り込んでいたアリアは持っていた帽子を握り締めた。
「・・・・・・アリアはレンジにきらわれた。アリアがおせっかいだから」
「・・・・・・レンジくんに嫌われたのが哀しいのかい?」
いつになく目が赤くなっている彼女に聞く。だがアリアは頭を横に振り、違うと応えた。
「・・・・・・アリアはきらわれるのが哀しいんじゃない。アリアは伝わらないことが哀しい」
「そうか。・・・・・・そうだな」
ファルシオンも呟く。
伝わらない。届かない。聞こえない。知る事ができない。
「わかりあえない事ほど、哀しい事はないな」
そして、昼間サクラガミの語った話をアリアに話す。
「君もレンジくんの事を知らないといけないと思う。もちろん、多少は知っているかもしれないが――僕が聞いた話は、きっと君が知らなかった部分もあるだろう。レンジくんと、君が声を聞いたっていう女の子の話だ」


* * * *


とつとつと、サクラガミは言う。
「最初に気づいたのは私でした。いつの間にか、家の庭に男の子が立っているのです。
もちろん驚き、私はすぐに姉の部屋に駆け込むとその事を告げました。すると、姉が話を聞くなり急に立ち上がって庭に駆け出したのです。もちろん駆ける程の体力は姉にはなかったはずですが・・・・二人は雨の降る中、何も言わずにじいっと見詰め合っていました。
そしてしばらくして、彼が呟くのが聞こえました。姉に傘を差しかけながら」

下駄も履かず、走って庭に飛び出てきた塩子を見て彼は言う。
「おまえに触れに来た」
恋路の言葉に塩子は肩で息をしながらも吹き出して笑ってしまう。
「ほんとに・・・・・・本当に来てくれたんだ」
そして彼の手を取り、自分の頬に寄せた。
「・・・・・・・どう?触れた感想は」
恋路はしばらく無表情で手を眺めていたが――少しだけ笑い、彼女の頬を撫でた。
「思ってたより、暖かい」
「そう・・・・・・よかった」
静子は、毎日姉の下へ通い花を置いて話し相手になっていたのが彼だと気づいた。そして不思議な思いで彼女たちを部屋の中から見ていた。
二人は初めて出会ったような、否、もっと前から知っていたかのような様子で雨の中立っていた。
それからも彼は塩子の元を訪れた。毎日山で探してくるという花を片手に何処からともなく塩子の部屋の前に立っていた。
もちろん親に知られると大問題となる為、塩子たち二人以外の誰かの気配がすると彼はすぐに山へと帰って行った。
その日も昼過ぎに医者が訪れてきた為、彼は部屋の襖を開けると風のように去って行った。
彼が去っていくのを廊下で見かけた静子は姉の部屋に向かい、縁側に腰掛けていた塩子に問いかける。
「お姉さん、あの人何処に住んでいるの?」
塩子はただ笑って山を指差した。
「ずうっと昔から・・・・あの人は山に住んでたのよ」


* * * *


恋路は畑に水を撒き終えると鶏小屋へ行って、柵を全て開け放した。鶏たちは騒ぎながら、各々好きなところへ歩いていく。
夕暮れの風が山に吹きすさび、彼は目に入ったゴミを取りながら家の中へと入っていった。
家の中は以前から整然としていたが、今日はすでに全ての物が片付けられ、しんとしていた。ただ塩子の部屋の机上にある花瓶だけは片付けなかった。赤い夕日に染まって青い矢車菊は紫色に見える。
恋路はいつもしていたように塩子の部屋の縁側に座り込む。庭に咲いた牡丹が美しかった。
そのうち、いつもこの庭に入ってくる三毛猫が彼の足元に来て、体を擦りつけながらにゃあと鳴いた。
恋路は猫を拾い上げて膝の上に乗せる。
「・・・・・・俺は居なくなるが、あの鶏たちを虐めんなよ」
わかったか?と念を押して猫に言う。猫はにぃ、と鳴きながら首を傾げる。
遠くから鐘の音が聞こえてきた。もう日没だ。
鐘の音に猫は立ち上がると、彼の膝の上から身軽に地面へと飛び降りた。
恋路も立ち上がり、懐にしまっておいた襟巻きを取り出す。淡い水色は優しい藤色になっている。それを首に巻きつけ、彼は背中に刀を背負った。
彼を見上げる猫が鳴く。
「・・・・・・じゃあな。元気でな」
恋路はの桜の木の元に向かった。数十年前からと同じように花を咲かせているあの木の元へ。
彼にとっては一瞬のようで長いような年月をこの地で過ごした。元々どこに居座るわけでもなく、世界を悠々と見下ろしていた彼にとっては最も長く住んでいた街だった。
元来彼は気ままに生きる、という信念ともいうべき考えの中で生きてきた。彼の同族には力を持つ自らたちが、世界の均衡を守るという考えを持って人々に崇められる者も居れば、この世界に存在する全ての生命と共存すべきという考えの者、そして全くこの世界に興味を持たずに関わりを持たない者もいた。
けれども恋路はそういう生き方はしたくないと思っていた。
世界のあちこちを見て回ったのも、昔この街で人々が助けを求めていたのを助けたのも、塩子を見守りながら生きていたのも、彼にとっては気ままに生きてきた証だった。特に理由は無かった。
けれども、彼女の願いを叶えてからは全ての事に理由が出来たように思える。
だって、そうだろう?恋路は自分に問いかけた。
一人の人間の少女の為に肉体を持ってこの世界に降り立ち、彼女に触れ、人間の一生をその傍らで見続け、自身も人間として生活をし、そして迎えた彼女の死を受け入れずに今日まであの桜を散らせようとしなかった。すべてが彼にとっては理由があるものだと思えた。
そして「入り口」を開けたまま数十年が経ち、天使が降臨した今、入り口からは多勢の亡霊たちがこの世界に侵入しつつあるというのに、自分はそれを容認していた。
もちろん街に被害が出ないように抑え続けていたつもりだったが、身勝手だった。この街の住人たちに悪い事をしたと思っている。
もう俺はここにいる意味がないんだ、塩子。
再び現れようとしているクチナワと共に、俺は元居た場所へ帰ろう。
元居た場所から世界を見下ろしまた意味もなく悠々と飛び続けていくのだ。
恋路はそう覚悟した。
桜の木の下で構える。太陽は山の瀬に消えてゆく。
太陽が完全に沈むと山の景色が変わっていった。
爛れた草木、呪われた鳥居の門、影から現れる亡者たち、そしてクチナワの鳴き声。
・・・・・・・おまえも、終わりだ
足の無いカシマレイコが近くの木の枝に腰掛けながら笑っていた。
今夜、我らの主が現れる・・・・・・人間になったおまえでは、勝ち目なんてないさ
恋路は刀を抜いた。刀は冷たい輝きを放っている。彼の心と同じくらいの冷たさを持っている。
「ああ・・・・・・今夜で終わりさ」
恋路は呟き、亡者たちの群れへと飛び込んで行った。


* * * *


「始まったな」
ブーツのジッパーを上まで上げきり、ファルシオンが呟く。
桜の山の周りには以上に濃い霧が立ち込めていた。そしてあの大蛇も頂上へ向かいつつある。
それを見つめていた(どうやら彼女にも見えるほど強く現れているようだ)ルージュが言う。
「つまり・・・・・あの大蛇の亡霊が山頂の桜に辿り着いたら、おしまいって事?」
「そ。入り口が開かれてあの大蛇大復活、ゲームオーバー」
「じゃあファルシオンがあのへびたおせないの?」
「いやぁ・・・・・あれは無理・・・・・」
「えーっ」
「ごめんなさい勘弁してください」
三人は道路に並び、山を見据える。
「・・・・・よし。レンジくんに言いたいことがあるんだね、アリア?」
「言わないともう彼、いなくなっちゃうのね」
「うん。アリアはそれを伝えにいく」
アリアは帽子掴み、ぎゅっと強く被った。
「いこう」
「よしきた」
ファルシオンは指先で虚空に文字を描き、造り出した白い炎を頭上に掲げた。