3.



夢の中でアリアはあの桜の木の下に居た。
桜の木というより、暗い世界で柔らかな光を燈している松明のようだった。
その木の向こうには暗い穴が開いている。大きな穴ではないが、裂けたようなたったわずかな隙間にアリアは得体の知れない不気味さを感じた。
その前には女性が立っていた。顔は見えない。体もぼんやりとしている。だが、アリアはその影が女性だとわかった。
彼女は寒そうに震えていたので、アリアは何か着せるものはないかと辺りを見渡すと、木の枝に一枚の鮮やかな色合いの襟巻きがなびいているのが見えた。
枝まで跳び(いかにもそこが夢だとアリアは思った)、それを取って彼女に渡す。
だが彼女は受け取らない。首を振り、アリアの後ろを指差す。振り向く。
遠くの方で、誰かが立っていた。やはり顔は見えなかったがアリアにはそれが男だとわかっていた。
彼はただじっと何かを待っていた。明るい方で、ただ一人立っている。
手を引かれ振り返ると、女性が彼を指差していた。渡して欲しい、と言いアリアが持っていた襟巻きを示す。
アリアは頷き、彼の元へ走ろうとした。しかしいくら走っても走っても、彼の元にはいつまで経っても辿り着かない。
怪訝に思ったその矢先、背後から重く忌々しい音が聞こえ、アリアは身を竦める。
後ろを見ると女性の影はもはや無く、その背後にあった穴から大きな白い蛇が這い出ようとしていた。
白い蛇に追いかけられていた途中で、アリアは夢から醒めた。
重い瞼を擦りながら横を見ると、布団を乱れさせもせずにルージュが静かな呼吸をしながら眠っている。
部屋は雨戸を締め切っているため外の様子は伺えない。が、机の上に置かれた時計を見るとすでに朝を過ぎており昼が近いぐらいだった。寝すぎていた事に少し驚きながら隣の部屋へと続く襖を開ける。
隣の部屋にはファルシオンがうつ伏せで寝ていた。死んだようにまったく動かなかったので、近づき彼の長い耳にふっと息を吹きかけると、耳がぴくぴくと動いた。
彼の眠りはいつも深い。滅多な事が無い限り朝早く起きてくる事はなかったので、起こすのも面倒になりアリアはまぁいいやと襖を閉めた。
ぐっすりと眠っている二人を他所に、アリアは一人洗面台に立って歯を磨き顔を洗い、着替えて下の階に下りる。下の階では宿の女将が食堂で裁縫をしていた。
「あれま、おはよう。みんな死んだように眠ってたから起こさなかったんだよ」
「アリアは起きたけど、二人はまだねかせておいて」
朝食は米と濃い味のスープと、目玉焼きと焼き魚を出された。
朝食を食べながらアリアはぼんやりと昨日の事を思い出していた。
呪われた桜の木。カシマという霊。世界の終末のような世界。そして。
昨晩はあれから急いで山を駆け下り、宿に着くや否や三人して部屋に辿り着いた瞬間に寝込んでしまった。
ファルシオンは何やら力を使ったようで疲弊していたし、ルージュは恐怖で緊張し続けていたせいか帰り道では始終泣きそうだった。そんなこんなで皆疲れていたのだろう。
今日は二人が起きてくるまで時間がかかりそうだ。それまで何をしていようか、そう考えながら窓の外を見る。
と、外に広がる青い空を見てふと思い出す。青。青いマフラー。あの男。
腹の立つ男を思い出し、アリアは憮然とした面持ちで最後の玉子焼きにフォークを刺した。
不思議な男だったけど、何者なんだろうか。カシマやあの山に存在していた霊と対立しているようだったし、あの桜を守っているかのような雰囲気もある。世界を振り払ったあの光も。
これもファルシオンの言う半年前からの怪異の一つなのだろうか。
ごちそうさま、と言いアリアは食堂の奥にある広間で座り込んだ。新聞を広げるが全く読めない。
しばらくしてから食堂に現れ、後片付けをしだした女将が彼女を見て笑う。
「細ッこい体なのによく食べるねぇ。まぁそんくらいの年頃は食べても太らないのかね」
「アリアはよく食べる。アリアはもっとおっきくなる」
「そうさね。女の子は丸っこい方が可愛いもんさ」
最後に出されたお茶をすすりながら、アリアは先程からの疑問を女将に投げかけてみた。
「ねぇおばさん。あの山のうえにいる男のこと、しってる?」
「山の上って?」
「あのさくらがさいてる山のうえ」
食堂の窓から山が見えたので、アリアは指差した。その瞬間女将の表情が曇る。
「あんた、あの子に会ったのかい?」
「しってる?」
女将は食器を片付け、再び裁縫道具を持ち出してからアリアの隣に座った。
「知ってるもなにも――あの子は私が小さい頃から、あの山にいたんだよ」
意味がわからなくてアリアは首を傾げた。
「おばさんが小さいころから?」
「50年も、変わらぬ外見であの山にいるんだよ、あの子は」
女将は少し遠い目をしながら窓の外を見つめた。
「あの子は、桜の精だって私は思ってるけどね・・・・・・・」





アリアは桜の木の前に立った。
「・・・・・・・こんちわ」
「・・・・・・・・・・。」
空は青く、雲ひとつない。初夏の日差しはじっと立っていると暑いくらいだった。その中で桜の木は柔らかな色の花を咲かせている。その中で揺れる空と同じ青色のマフラー。
アリアは桜の枝の上で寝ている男に向かって再び声をかける。
「こんちわ。アリアはあんたと話をしにきた」
「・・・・・・・・・・。」
「アリアはアリアっていう名前。あんたは?」
「・・・・・・・・・・。」
「・・・・・・・・・・。」
むぅ、とアリアはため息をついた。
「じゃあ、仮にばかってよぶ」
「・・・・・・レンジ」
男は観念したように呟いた。
「恋路だ。この馬鹿女」
彼――レンジは起き上がり、枝の上に座り込みながら彼女を見下ろす。
「・・・・・・なんのよーだ。人間は入ってくるなと言った筈だぞ」
彼は木から飛び降りると、それ以上何も言わずに歩いていってしまう。アリアも無言でそれを追い、歩く。
「・・・・・・ついてくんなよ」
「アリアは話をしにきた」
「おまえと話す事なんてなにもないぞ」
彼は足早に行ってしまう。アリアも走って追いかける――が。
ずずっ、ずるっ。背後から聞こえたあの音に、彼女は背後を見た。
一瞬、白い紐のようなものがそこに横たわっていた。だが瞬きをしたその瞬間にその姿は何も無かったかのように消えている。
「・・・・・・しろいへび」
アリアは思わず呟いた。彼女の言葉に、レンジは振り向く。
「・・・・・・なんだと?」
「しろいへびがいる」
「まさか・・・・・・・」
しかし、アリアの耳には鐘の音のような蛇の鳴き声が聞こえていた。

その後、彼は何事もなかったかのように歩いて行った。
アリアはまた鳴き声が聞こえないかと、耳を澄まして辺りを見渡すが特に何も聞こえてこなかった。首を傾げながら先に行ってしまった恋路の後を追う。
桜の木から少し離れたところに獣道のような小さな道があり、鬱蒼とした森の中へと彼は進む。森の中でも見失いそうにない水色のマフラーを目印に、アリアも進む。
森の中には数々の生物の気配が満ちていた。昨夜とは大違いだ。
歩いているアリアの前をリスが走り去る。頭上を鳥が鳴きながら飛んでゆく。風に吹かれて、竹林がさわさわと涼しげな音を立てて揺れる。
しばらく歩くと、森の中で少し開けたところに小さな畑があるのが見えた。すぐ傍には綺麗な川が流れている。
「珍しい薬草が生えてんだ」
立ち止まって見ていたアリアに、振り返らず恋路が言う。
「元々綺麗な水のあるところでしか生えないもので、今ではこの森ぐらいしか採れないらしい。よく商人が高い金を持って買いに来る」
「・・・・・・レンジがこの森のもちぬし?」
彼は頭を横に振った。
「昔から住んではいたが俺のもんじゃない。持ち主は、地元の人間だ」
彼が見ている先には、立派だが古い屋敷が建っていた。
「あの家の持ち主が、この山の所有者だったんだがな」
ここで恋路がようやく振り返り、冷めた眼差しでアリアを見た。
「今日はあの変な奴らはどうした。お前一人か?」
「ファルシオンとルージュはねてる。今日はアリアひとりできた」
「ファルシオン・・・・・・?」
その名前に一瞬、恋路は怪訝な顔をした。だがすぐにその表情を消し、また冷めた眼差しになる。
彼はそのまま門を越え、家の敷地へと入っていった。アリアが物珍しく家を見上げていると、奥から声が聞こえる。
「おい、こっちに座ってろ」
アリアは彼に言われたとおりに、庭が一望できる縁側へと向かった。
縁側の奥には部屋が続いていた。隅に置かれてある机の上には鮮やかな色の矢車草が飾ってある。
だが、その他家財道具があるにもかかわらず人の気配は無かった。
「・・・・・・この家の持ち主は」
奥から湯飲みを二つ持って恋路が現れた。
彼は縁側に座っていたアリアの斜め後ろに腰を下ろし、湯飲みの中の茶を飲む。
「ずっと前に没落した地主だ。今ではこの家も手放されていて誰も残っちゃいねぇ」
「・・・・・レンジがこの家にすんでる?」
「この家の者と知り合いだったんでな。居候・・・・・みたいなもんだけど、でも」
彼は振り向いて部屋の中を見た。
「もう誰も帰ってこないだろうさ」
アリアも振り向く。部屋の中で、布団の上で座っている女の子が彼女に向かって微笑んだ。アリアは瞬きをする。すると彼女の姿はもうない。
「あの・・・・・・・いま」
「なんだ?」
恋路が聞いてくる。
恋路はまったく気づいていないのだろうか。アリアは彼と部屋の中とを交互に見返したが、首を捻って黙った。
しばらく会話も途絶え、二人は静かに縁側に座っている。
綺麗に、と言うわけではないが手入れされている庭にはいつの間にか野良猫が入ってきていた。三毛の猫は二人を見てみゃあ、と鳴きまたのんびりと歩いていく。
「・・・・・・・レンジは」
茶を飲み干したアリアは、胡坐した脚に頬杖をついて目を閉じている恋路に尋ねた。
「レンジは、ひとりでさみしい?」
返事がしばらく返ってこなかったので彼は寝ているのかと思っていた。
「・・・・・・俺には、寂しいっていうのが理解できん」
淡々と彼は言う。
「寂しい、というよりは・・・・・・独りで生きる時間は俺には長すぎる」
それを寂しいと言うのではないか、とアリアは思ったが口にはしなかった。
部屋の中では、また彼女が寂しそうに恋路を見ながら笑っていた。彼が見ている世界とは違う場所で、笑っていた。
昼を過ぎてとうに経ったところでアリアは山から下ってきた。
閉められた門を飛び越え、来た道を振り返ると水色のマフラーを揺らしながら恋路が帰ってゆくのが見えた。
夜になると再び霊たちが現れるのだという。彼が言うにあの桜の木が霊たちを引き寄せているらしい。
何故、と聞くと彼は言った。
「俺が入り口を開けちまったんだ。そしてそれを閉める決意が俺にはない」
意味深、というより会話の答えになっているのかもわからなかったがそれ以上彼は何も言わなかった。
アリアはファルシオンたちのいる宿へと帰って行く。
昼を過ぎてかなり経ってしまっていた。いい加減ファルシオンたちも起きているだろうし、居なくなったと騒がれる前に帰ろうとアリアは通りを駆け抜けた。その手には彼から貰った薬草を入れた包みが握られていた。





階段を上りながら恋路は拳を握る。
もう限界だ。クチナワが出てきた以上、早く入り口を閉めなければこの街が飲み込まれてしまう。
頂上で咲き誇る桜を目にし、恋路は苦しげに呟いた。
「・・・・・・塩子、俺はもう・・・・・・・・」





「・・・・・・っつぁ――――っ!」
声にならない悲鳴をあげ、ファルシオンが机に突っ伏した。
それを見ていた女将が笑う。
「異人さんの口には合わないだろねぇ。こういう薬味なんだよ、これは」
「合わない、っていうか・・・・・これほんとに食べるもんなんすか?」
涙目で鼻をつまみながらファルシオンが唸る。女将は笑ったままだ。
「食べる、というかまぶしたり添えたりするもんだね。消毒作用があるんだ」
「・・・・・というわけでお嬢様方、間違えても僕みたいに一口でいかないように」
『はーい』
元気よく二人は手を上げて返事をする。
女将が部屋から出て行ったところで、ファルシオンが不思議そうに尋ねた。
「しかしまぁ、どっから持ってきたんだ、この薬草?おばさんの話では珍味らしいじゃないか」
「自然のものだとかなり価値が高いようね」
ルージュも興味有りげにアリアを見る。
「アリアはレンジにそれをもらった」
租借しながらアリアが答える。レンジ?と二人は首を傾げるが、アリアは秘密とだけ言って夕食を平らげた。