9.



何の夢を見ていたのか起きた時には覚えていない。

静かに襖が開く。その気配で恋路は目が覚めた。まだぼんやりとした焦点を合わせて襖の方を見る。
小柄な体格の上品な老婆がそこに立っていた。淡い萌黄色の着物が真っ白な髪に良く似合っている。
恋路は彼女を知っていた。彼女が少女だった頃の姿だが。
「・・・・・・静、か」
その声を聞き、静子は優しい微笑を浮かべる。
「・・・何十年ぶりですかね。お久しぶりです、恋路さん。具合はいかがでしょうか」
静子は音もなくこちらに近づき腰を下ろした。
恋路も起き上がり、多少痛む体をさすりながら縁側に座る。
しばらく二人は無言で庭を眺めていた。その間にも桜の花びらは散り続け、池は花びらで埋まっている。
膝に手をついて座っている恋路の後ろで静子は身じろぎもせず正座していた。その気配に恋路は苦笑して言う。
「・・・元々おまえの家だろ。そんなかしこまるな」
「綺麗に使ってくださってたのね。何も変わってないわ・・・」
彼女は部屋の隅々を懐かしそうに見渡している。そして棚の上に置いてある両親の遺影も綺麗に磨かれている事に気づき悲しげに呟いた。
「・・・貴方にひどい仕打ちをしたというのに・・・」
「それでもお前たちの両親だろう。別に憎んじゃいなかったんだ」
何も静子は答えなかった。
二人が互いにそれぞれの昔を思い出しながら座っていると、門から誰かが入ってくるのが見えた。
「――おばぁちゃーん!ここがおばぁちゃんが住んでたお家??」
十代半ば位の少女が静子に手を振りながらこちらに向かってくる。恋路はその姿を見て一瞬、錯覚を起こしそうだった。その顔は、良く――
「・・・良く似てる。孫か?」
「はい。孫の組子です」
良く、塩子に似ていた。
少女――組子は恋路に気づくと、にっこりと笑った。
「こんにちわ、あなたが桜の麗しの君ね!」
「さくらの・・・・・・」
思わぬあだ名に呆れていると、静子が恥ずかしげに彼女をいさめた。
「これ組子、その名前はだしてはだめだと・・・」
「おばあちゃんが好きだった人でしょ?異人さんみたいだけど、カッコいい人ね」
「ああ、もう・・・すみません。物怖じしない子でして・・・」
「構わないさ」
はっきりとした物言いをする彼女には好感が持てた。そういう所も似ている気がする。
組子はそのまま縁側から家の中に上がりこみ祖母の実家の探索を始めた。残された二人に重くのしかかるこの家の時間という重圧を彼女はいとも容易く断ち切る。
嵐が過ぎ去った後のような間を経て、静子が言う。
「息子の二番目の子なんです。上の子は大人しい子なのですが・・・」
「お前たちとは逆だな。・・・ん?どうした」
「あの。台所にあったちょっと古い林檎、食べてもいいですか?」
奥の部屋から組子がひょっこり顔を出してくる。溢れんばかりの行動力に、思わず恋路は笑った。
「好きにしろ。何なら、置いてあるもの全部持っていけよ。俺にはもう必要が無い」
静子が思わず立ち上がる。それを手で制し、恋路は宣言するように続けた。
「この家は今この瞬間からおまえたちのものだ。・・・つっても、元々俺のものでもなんでもなかったんだから偉そうに言うまでもないけどよ。俺はここから去るよ」
「そんな、追い出す事なんて――」
「いいんだ。ようやく、行く事ができる。俺は旅立てる」
唐突の事に静子は慌てていたが、組子といえばきょとんとこちらを見ているだけだった。
それを見て恋路は満足していた。これでもう、心残りはない。
「俺は行く。元々、放浪してた身だ。またぶらぶらどっかに行くよ」
「戻ってこないの?」
ささやく様に組子が呟く。
「もう、戻ってはこないの?」
恋路は組子を見た。細いがはつらつとした力が溢れているしなやかな体に、きついわけでもないが強い眼差し。綺麗な桃色に塗られた爪。自分たちの民族服とは違う、動きやすい薄手の服。
そして、細い彼女の首に巻かれた桜色の襟巻き。
恋路は一度目を閉じ、またしっかりと開いた。
「いや、戻ってくる。そしたらまた、この縁側に座ってあの桜を見させてくれ」
「――はい。もちろんですとも」
静子が頷く。何度も頷く。
涙ぐむ自分の祖母を見ていた組子は自分が巻いていた襟巻きをはずし、恋路に差し出した。
「・・・これ。おばあちゃんの物置に大切にしまわれてたマフラー」
「?」
意味がわからずに彼女の目を見る。組子は笑った。
「もう色があせてたから、前におばあちゃんと桜の木の皮を煎じて染めたの」
「おう」
「持ち主に返すわ。これ、あなたのだったんでしょ」
ようやく恋路は気づいた。これは――組子の手から淡い桜色の襟巻きを受け取り、慣れた手つきで恋路は自分の首に巻く。
「・・・ちゃんと、返ってきた・・・か」
「いつか渡そうと思っていましたが・・・今際のとき、姉さんに言われたのです。綺麗な桜の色に染めて返してあげて、と」
「・・・へっ、勝手に違う色にしやがって。前の色も気に入ってたんだけどな」
震える声で憎まれ口を叩くのが精一杯だった。
組子が部屋から部屋へ歩きながら嬉しそうに言う。
「おっきい家ね。おねぇちゃん子供生まれるけど、皆で暮らせそうじゃない?」
「もうすぐ、ひ孫が生まれますの。大所帯になりますわ」
しみじみと静子も嬉しそうに続ける。とても幸せそうだった。
五十年。彼にとっては意味の無い時の流れの単位。その間に人は大きく変わり、時には去っていくという。
彼は永遠の時の中で生きていく者だったが、彼ら人には僅かな一瞬が永遠になる不思議な魅力を持っていた。
ああ、そうか――恋路は散っていく桜を見ながら思う。
だから、塩子は美しかったんだ――彼女に惹かれた理由を思い出して恋路は静かに目を伏せた。


* * * *


下に広がる街から誰かの掛け声が聞こえてきた。
今日は祭の片付けの日で、街の住人たちは朝早くから昨晩の祭の跡を片付けている。見ると山車が倉庫に運ばれていた。壁にぶつかりそうにでもなったか、怒号も聞こえてくる。
それを山の上から見下ろしながら恋路は歩く。
春を過ぎ夏に近い風は暑いくらいだった。だが宙に舞っている桃色の花びらがどこか春を思い出して、それほどに気にはならない。
桜の木の下には冴えた赤髪の女性が座っている。恋路はのんびりと歩きながら彼女の横まで来た。
気配に気づいたのか、彼女が振り向く。
「――あ、ええと・・・レイジ君?もう怪我は大丈夫?」
「・・・恋路だ。なんとかな。別にたいした怪我じゃねぇし」
彼女――ルージュと言ったか――は丘の上、草原の上で座っていた。その横に恋路も座る。
丘の下から聞こえる笑い声に恋路は意外そうに言う。
「・・・なんだ、元気そうじゃないか。死にそうな面してたのによ」
二人はどこからか持ってきたのか、麻布を敷いて丘を滑って遊んでいた。時々転んで二人して丘を転げ落ちている。
「あの後倒れこむように眠っちゃって、昨日一回も起きてこなかったのよ。今日もさっきようやく起きてきたところなの」
ルージュが笑いながら応える。そして日差しを手で避けながら彼らに手を振った。
それに気づいた彼が何かを言いながらこちらに上がってくる。近くまで来ると、彼はルージュに言った。
「アリアがまだ遊びたいって。交代してくれ、疲れた」
「うん、わかった」
ルージュは立ち上がり彼に水の入った缶を手渡すと、下で待つ少女の元へと向かった。
彼――ファルシオンは水を飲みながらこちらを見てにやりと笑う。
「よお。目がまだ腫れてるよ、オオトリさま」
「うるせぇよ、まだら白髪。・・・恋路でいーよ」
息をついてファルシオンが彼の隣に座る。目の下に濃い隈ができていて未だ疲れが取れてはいなさそうだったが、真っ白だった彼の髪は幾分か元の色に戻っていた。
それを見ながら恋路が言う。
「あと何日かすれば治るだろ。・・・悪かったな、色々と」
「ほんのおせっかいだったはずなのに、死にかけるとはなー。まぁまがりにも神様に戦いを挑んで生きのびていられるだけで幸運だね」
苦笑しながらファルシオンが応える。
岩にひっかかって丘を転げ落ちる二人の悲鳴を聞きながら、彼は満足そうなため息をついた。
「俺が寝てる間に二人で祭に行ってきたってさ。そしたら街の人たちが大騒ぎしてたみたいだよ。祭りの日に神様が降臨なさったって、喜んでた」
「・・・・・・。」
恋路は何も言わなかった。それを見て、ファルシオンは真顔で訊ねる。
「・・・あんた、一体何者なんだ?人ではないだろうが・・・本当に神様なのか?」
「神じゃねぇよ。・・・まぁ考えようによっては、アミニズム的なものの考えだとしたら神の分類に入るかもしれんが。俗に言う神の定義には当てはまるかな」
他人事のように恋路が淡々と言った。
はっきりとしない答えにファルシオンは再び苦笑しつつ言う。
「俺の兄もあんたみたいな存在だよ。歳をとらずに不思議な力を使う・・・」
「そりゃそうだ。おまえの兄貴と同属だからな」
思いもよらぬ言葉にファルシオンは聞き返す。
「え?」
「おまえの兄貴の事は知ってるぜ。今は何て名乗ってるか知らんが――古い付き合いだ」
「・・・・・・えーと」
どれから突っ込んでいいものやら迷ったが、ファルシオンはとりあえず一番の疑問を問いかけた。
「どれくらい?」
「・・・この世界が出来てすぐ位か」
しばらく唖然としていたが、じわじわと笑いがこみ上げてファルシオンは大きく笑った。
「俺たち、傍から見たら冗談言い合ってるみたいだな」
「冗談でもいいぜ」
へっ、と恋路も笑う。
笑いが収まるとファルシオンは立ち上がって尻についた草を掃った。
そしてしばらく無言でルージュたちを見つめていたが、彼はぽつりとつぶやく。
「・・・・・・あんた、よく泣いたよな」
「なんだよ急に。うるせぇなぁ」
からかわれているのかと思い恋路が悪態をつく。だがどこか上の空でファルシオンは言った。
「・・・俺は泣かなかった。涙も出なかったよ」
「・・・・・・?」
意味がわからず恋路は疑問の目を彼に向ける。ファルシオンは何かを思い出しているのか、無表情のまま前を見つめていた。
と、下から彼の名を呼ぶ声がしてファルシオンの顔に表情が戻る。
ぼろぼろになった麻布を引きずりながらルージュとアリアが上って来た。
「なにしゃべってたの?」
「ん。色々と」
彼は笑いながらアリアの肩についている枯葉を払ってやった。アリアとルージュは水を飲みながら座る。
アリアは横目で恋路を見ていたが、彼がその視線に気づき目を向けるとさっと目をそらした。
「・・・なんだよ」
「・・・・・・・。」
何か言いたげなその眼差しに恋路は嘆息すると、ぼそりと呟いた。
「・・・・・・・ありがとよ、お前には世話になった」
「いい。アリアはシオコにも言われた」
「そうか。塩子にも言われたか」
と、彼が首に巻いている襟巻きに気づきアリアは目を丸くした。
「そのマフラー・・・」
呟き、目を伏せる。
よかったねシオコ。わたせたね。
強い風が吹いて花びらが一斉に空に舞い上がる。アリアとルージュは歓声を上げた。
手の上に落ちた花びらを摘みルージュが桜の木を見上げる。
「・・・花びらがすごいね。これだけ散ってるのにまだなくなってない」
「あ、でもよく見るとほら」
ファルシオンが枝を指差す。
「散ったとこからもう若葉が出てる。早いもんだな」
「もう夏だからな。一週間もすればこの木も緑一色になる」
恋路も応えた。
再びアリアとルージュは丘を駆け下りて行った。後に残ったファルシオンは立ち上がり背筋を伸ばす。
彼は言葉をゆっくりと選び、恋路に問いかけた。
「・・・たったの一週間の命か・・・。短い一生をあんたは虚しいと思う?」
だが恋路の答えは簡単だった。彼は首を横に振り言う。
「そうでもねぇよ。だからこそ・・・綺麗と呼べる代物になるんじゃないか。
それにまた、春が来れば花は咲く」
そして遠い眼差しを街に向けながら、塩子と一緒に見た満開の桜並木を思い出す。
桜が散ったら、また会おう。
自分に言い聞かせるように恋路は言った。首に巻いた桜色の襟巻きが、彼にはよく似合っていた。
「機会があればまた見に来るといい。来年も見事な桜が咲くだろうからな。この木だけじゃなくて、街全体の桜が一斉に咲くんだ・・・。
また、見に来るといい。とても綺麗なんだ」














おまけ