1.



「今日でお別れだね」

そう言って塩子は俺の顔を見て笑う。
「そんな顔しないでよ。すぐに帰ってくるわ。元気になってね」
別に悲しくなんかないぞ、と俺は吐き捨てるように言った。お前が居なくなれば静かになっていいだろうよ、と。
「そう、そんな口叩けるんならだいじょぶね」
涼しく笑い、塩子は机の上に飾ってある梅の枝に視線を移した。昨日持ってきたばかりの梅は、鮮やかな赤い花を咲かせている。
「・・・・・ねぇ、恋路」
俺は振り向かずに縁側に座ったまま、なんだよと返す。塩子は布団から起き上がり、窓を開けてと言った。
立ち上がって部屋の中に入り、窓を開ける。
丘の上の桜の木が見えた。まだ花を咲かすには早過ぎて、蕾も僅かに付いている程度だった。けれどもあと半月程経てば、見事な花が咲くだろう。
窓の外を静観する塩子の隣に座った。
塩子が小さく咳を洩らす。火鉢は離れたところに置いてあって、窓を開けると縁側から入る風が部屋を吹き抜けた。
俺は首に巻いていた襟巻を取ると、小さく震えていた塩子の肩にかけた。
塩子が驚いたように目を白黒させていたので、俺はそっぽを向いて鼻を鳴らす。
しばらく貸してやるよ。けど、戻ってきたらちゃんと返せよ。
そう言うと塩子は目を閉じ時間をかけてゆっくりと開き、そして俺の髪を撫でて笑った。
寂しいよ。思わずそう言いかけ、俺はぐっと唇を噛む。
「大丈夫よ」
塩子の目にはあの桜の木が映っていた。


「あの桜が散る頃には元気になって帰ってくるから。そしたらまた、あの桜の木の下で会おう」









桜が散ったら 会いましょう








何かとても重いものを引きずるような音にアリアは振り向いた。

だが、人でごった返した門の前にはそのような音を出すようなものは存在してはおらず、アリアは首を傾げる。
直接頭の中に響いてくるような重苦しい音。こんな鼓動の音の人なんていない、と思いつつ自分の耳を疑う。
「どうしたの?」
白い日傘を差しながら横に立つルージュが尋ねる。アリアは別に、とだけ言うと前に立つファルシオンの裾を引っ張った。
「アリアはおなかがすいた。まだ行けないの?」
ファルシオンは、本日彼らが泊まる民宿の品定めをしているところで、先程から門の前で旗を振りながら(宿の名が旗には書かれているらしいが読めない)客引きをしている人々と何か交渉していた。
振り向いたファルシオンは眉を八の字にして苦笑しながら言う。
「ごめんよ、もうちょっと待っててくれ。もう少しで格安で泊まれそうなんだ」
「アリアはご飯がおいしいところがいい」
「私は温泉が綺麗なところで・・・・・」
アリアが率直に、ルージュが控えめな提案をして今夜の宿が決まった。



「面白い街だろう」
宿へと向かう途中、宿の用意した牛車に揺られながらファルシオンが言った。
大陸の端にある港町へ行く途中に、アリアたちはこの街に立ち寄った。
傾きかけている太陽の日差しを手で避けながらアリアは辺りを見渡す。
アリアたち北方人種とは違う、黒髪に黄色い肌の南東人種の創った街だという。
木造の不思議な建物と、舗装もされていない土肌の道。見る限り機械文明の恩恵を受けた様子はなく、街行く人々もどこかのどかそうだ。
ルージュの住んでいた村といい、自分が住んでいた街って結構都会だったのだなとアリアは思いながら牛車の縁で頬杖をつく。
ルージュもあいかわらず日傘を差したまま、ファルシオンに疑問を投げかけている。
「どうして南に住む人たちがこの地方に?」
「かつてその国には二つの勢力があったんだ。蛇を祭る勢力と鳥を祭る勢力と、ね。二つの勢力は幾度も戦を起こし、ついに戦に負けた鳥を祭る勢力は国を追われて、この地へと辿り着いたのが500年前」
ファルシオンは寄って来た虫を払いながら言った。
その後を、聞いていたのか流暢な共通語で牛車の御者が続ける。ファルシオンは株をとられて苦笑した。
「蛇神の一族から放たれた追っ手と守護神様が戦い、勝利を収めたのがこの地だ。ほら、あそこに――」
前方の山を指差す。
「あそこに桜の木があるだろ。あの木は守護神様の勝利を讃えて植えた木なんだと。うちらの一族に伝わる言い伝えだ」
山、というよりは丘と言ったほうがいいような小さな山には隙間なく広葉樹が生えていた。夏も近い今では淡い色の若葉の涼しげな緑が山を覆う。
だが、丁度山頂に生えている一本の木を見てファルシオンは眉をひそめた。
「・・・・・・遅咲きのサクラですか?」
一本だけ、見事な大木の桜の木だったが、満開の桃色の花を咲かせている。
ファルシオンの問いに御者は不吉なものを口にするかのように声を潜めた。
「呪われた桜の木さ。この50年間、花が散った事がないんだ」
アリアは見惚れたように桜の木を凝視していた。



* * * * 



宿についてから、夕食までには多少時間があるという事だった。
三人はその時間まで街を探索する事にした。アリアが先頭に立ち、その後にルージュとファルシオンが続く。
「夜市だって。いいなぁ」
通りに面した商店街に群がる人たちを見ながらファルシオンは唸る。
「この街は山の幸が美味いって話だからなぁ」
彼を他所に、アリアは桜の木がある山を目指す。
この街についてからアリアは何故かあの木に惹かれた。何か聞こえる。何かを誰かが言っている。
「アリア、どうしたのかしら」
周りの見えていないアリアにルージュは心配そうに呟く。ファルシオンは何も言わずにただ首をかしげた。
天使が彼女に与えた能力――“心無き鼓動”に関連した反応のようだが、今のところその影響は彼女の身に何かしらの危険はなさそうだった。彼女が力を使っているわけではなく、彼女の力に何かが反応しているのだろう。
まぁ好きにさせるのがいい、とファルシオンは傍観を決め込む。それに50年間も咲き続ける桜の木の秘密を彼も知りたい。
街の中心部を通り過ぎ、今夜泊まる民宿からだいぶ離れたところでアリアは立ち止まる。数十歩離れて街をのんびりと見て回っていたファルシオンたちも彼女の横で立ち止まった。
すでに太陽は傾き辺りは赤い。ひゅう、と鋭い音を鳴らせて吹き通る生暖かい風にルージュは体を震わせた。
そこは朱塗りの鳥居が連なる階段の真下。あの50年咲き続けている桜がある山への入り口だった。ただ――
「・・・・・・立ち入り禁止、だな」
山の入り口にはしっかりとした鉄格子の門と頑丈な鎖で錠が掛けられていた。門は決して越えられない高さではなかったが、門に隙間なく貼られた不気味な札を見れば立ち入る気は起こらない。
アリアに問いかける。
「アリア、どうする?ちょっと入るのは無理そうだけど」
「アリアはこの中にはいりたい」
「うーん・・・・・・って、言っても、ねぇ・・・・・・」
ファルシオンは渋い顔で門を揺すった。門に触れると僅かに痺れのようなものを感じる。魔除けの札か、と札の効果がちゃんとあるんだなと感心しながら手を引っ込めた。
その時、不思議そうに門の周りを歩いていたルージュが声を上げる。
「むこうから誰か来るわ」
反対側の道から中年の男二人が歩いてきた。彼らは門の前に溜まるファルシオンたちを見つけると、慌てて門の前に立ち塞がる。彼らの胸には門と同じ文字が描かれた札がぶら下がっている。
「駄目だよここは。観光地じゃあないんだから」
「ここから先は立ち入り禁止だ。危険だから、早く離れた方がいい」
一歩後ずさり、ファルシオンは尋ねる。
「危険って・・・・・・何か出るんですか?」
髭を蓄えた男は眉間にしわを寄せて答えた。
「この山は昔っから霊が出るって噂だったんだが・・・・・・ここ半年のうちで、霊に襲われたっていう奴が何人も出たんだ」
半年のうちでーーファルシオンの長い耳が立つ。
「霊?お化けとかですか??」
「襲われた奴は皆そう言ってるな。足のない女が立っていた、突然現れた人影に突き落とされた、蛇のようなモノに噛まれた、忍者みたいな奴が追ってきたーー変な話だろう。姿は一致しないが、皆あれは悪霊だと言ってる」
今度は煙草を吸っていた男が答えた。二人はそう説明しながらお互い顔を見合わせて恐いなぁ、と呟く。
「まぁ、今のところ襲われたっていう奴らは命に別状はないが、やっぱり危ないだろう。だからこの山は先月から閉鎖したんだ」
「昔は桜の名所として有名な山だったんだがのう・・・・・・」
しみじみと無念そうに二人は言った。
また、半年前からの異常。
例の天使のと何か関係あるのだろうか。ファルシオンは頭の中で考えを巡らす。と、
「ねぇ、ファルシオンくん」
ルージュが不安そうに服を引っ張った。振り向く。
彼女は辺りを見回しながら言う。
「アリアがいないんだけど・・・・・・・」
ファルシオンは咄嗟に門の奥を見た。
何処から入ったのだろうか、いつの間にか門を越えて黄緑色のマフラーが暗い森の中へと消えて行った。